NO TITLE

本当に大切な人を ちゃんと大切にできる私に。

逆転の発想と挑戦。

f:id:marina0821:20170508213609j:plain

 

このGWは、本当にゆっくりと自分と向き合えた。


自分がこれまで何を感じてきたのか。
今、何を感じているのか。
そして、これからどうしていきたいのか。

 

そんなことをじっくり、自分のペースで、考えることができた。

 

f:id:marina0821:20170412091543j:plain

 

そんな中やっぱり、切っても切れないのが「仕事」のこと。

 

かれこれ今の塾で、英語を教えてもう4年。

小学生だった子が、高校生になり。
高校受験でぎゃあぎゃあ言ってた子が、大学生。

ほんと、不思議な空間だよ。塾って。

 

もちろん生徒たちだけじゃなくて
あたし自身も色々と変わっていて、

 

許可なしで自由にやれることが増えていたり、
週3~4という理想の勤務時間と収入を保障してもらい、
授業以外で、高3生とのカウンセリングもさせてもらえるようになったり

正社員でも、非常勤でもない
よくわからない立場をしっかりと築いている。笑

 

1年目よりも、2年目。
2年目よりも、3年目。

振り返ってみたら、色々と変わったなぁ。

そもそも、2年目はストレス溜まりすぎて、
上司との中も最悪で、辞めようとしてたしね。

なつかしい(´ー`)笑。

 

f:id:marina0821:20170508204859j:plain

 

さらに、学歴コンプレックスで

ごまかし、ごまかしでやってきた英語力も
少しはマシになってきたと思う。

 

色んな生徒に出逢って、
色んな経験をさせてもらって、
色んなことに挑戦させてもらった。

そのたびに

嫉妬や不安に押しつぶされそうになったり
小さなことに飛び上がるほど喜んだり
自分のふがいなさに泣けてきたり・・・


そうやってこの4年間、色んなことを感じてきて、

 

また1つ、やりたいことが見つかった。

 

 f:id:marina0821:20170508205554j:plain

 

もっと【自分】を大切にする教育がしたい。

 

【自分】は、あたし自身でもあり、生徒たち1人1人でもあって

自分自身や生徒たち1人1人が感じていることを、
もっと大切にして、

「自分で自分を大切にする」って、ことを知るきっかけにしたい。

 

誰しもが通る教育という道。
もっともっと、やれることってあると思うから。

 

f:id:marina0821:20170508210755j:plain

 

ずっとこの教育という現場にいると
あまりにも融通が利かな過ぎて、うんざりすることが多い。

 

でもそれを、
どうこうするほどの力が自分にないこともよくわかってて
だからこそ、自分にも教育にも幻滅して
この世界を外から変えていこうとしていた時期もあった。

その試みの1つが

「高校生とのカウンセリングにコーチングを取り入れること」

だった。

 

そんな機会を与えてくれた上司には
本当に心から感謝しているし
よくわからないカウンセリングに付き合ってくれた生徒たちにも
本当に感謝しかない。 

 

そうやって、たくさんの人の協力のおかげで、気付けたんだ。

 

 

『やっぱり、中から変えていきたい』

 

 

f:id:marina0821:20170508211204j:plain

 

まずは・・「結果や答え重視の考えを変えていきたい」

 

そう思った。


だから、あーでもない、こーでもないと、
途中、何度も投げ出しながらも、考え続けた。

 

自分にできること。授業で、できること。

 

結果や答え重視の風潮をなんとかしたくて
そこにたどり着くまでの「過程」の大切さをずっと伝え続けてきた。

 

でも、あたし自身の伝えることのスキルもまだまだだし、
やっぱり「当たり前」の意識は強くて

生徒たちが求めて、満足するのはいつも「答え」だった。


それはテストってものがあって
そのテストや結果で評価されてきたから
仕方のないことなんだけれど、

そんな中で毎日、毎日、過ごしてるから、



「答え」さえ合っていればよくて
「過程」を改ざん、もしくは無視することさえある。

 

だから、どうしても、上手くいかなかった。
そのたびに、答えを重視するしかない自分が情けなくて、悲しかった。

 


でも、諦めたくなくて、考え続けた。

 

そして、ようやくひらめいた。

 

f:id:marina0821:20170508202936j:plain

 

だったら、そもそも「答え」を軽視してしまえばいい。

 

 

そうだ、初めから「答え」を教えてしまえばいいんだ。

 

 

f:id:marina0821:20170508212751j:plain

 

「これだ!」という想いの反面、
「おいおい、マジで?大丈夫?」という自分もいる。

 

でもまあ、やってみないとわからないし、
何かは得られると思うので、明日からちょっとやってみようと思う。

 

 

「英語を勉強する」こと

「あたしの授業を受ける」ことが

 

自分の声を聴いて、

受け止めて、

行動していくきっかけに

 

❝自分を大切にする❞

 

きっかけになっていって欲しいから。

「理想の教育」が苦手だった理由。

f:id:marina0821:20170506232104j:plain

 

今年のGWはもっぱら読書。

 

気になった本を読んでは
気になった言葉やフレーズを書き留め
そこから自分の感情を探る。

 

飽きたり、疲れたりしながら、
そんなことばかりしております。

 

 

これがね、、幸せなんだけどね。

 

f:id:marina0821:20170507023144j:plain

 

今日はいつ買ったのか覚えてないけど
ちょっと別の視点も知っておこうと思って買ったけれど
なかなか読む気になれなくて、ひょっこり顔を出した、これ。

 

世界で大活躍できる13歳からの学び

世界で大活躍できる13歳からの学び

 

 

「別の視点」って表現を使ったのは、ちょっと理由があって


確かにあたしは、今の教育制度に対して賛成派ではないし
基本的に教育者って呼ばれる人たちが、昔も今も好きじゃない。

 

だけど、現場にいるからこそ、

 

そうなってしまうのもわかるし、

自分も同じように振る舞ってしまったり
同じような思考をしてしまっている
自分に気付いては、情けなくなったりもする。

 

じゃあ、だからといって、

 

今の日本の教育を真っ向から否定して

いわゆるグローバルな視点を取り入れた
アクティブラーニングだとか
個性を大事にした教育だとか
褒める教育だとか

そういうのも、なんかちょっと違うのよね。

 

というか、
そんな授業をしてる自分が思い浮かばないし


そういう教育改革的なものを叫んでる人たちって
キラキラ?ギラギラ?しすぎて
やっぱり、あんまりお近づきになろうとは思えなくて。。

 

というわけで、この本はあたしにとって「別の視点」なんだ。

 

そして、いわゆる「理想の教育」。

 

f:id:marina0821:20170507030041j:plain

 

あたしはこの「理想の教育」が、、「も」苦手なんだよね。

だからこの本も、あんまり得意なジャンルではなかった。
もちろん、納得することだって、たくさんあった。

 

例えば、

 

日本の教育が「知っている」を求めるもので
世界の教育は「理解する」を求めるもの

 

なんていう描写は
日頃ずっと感じてた言葉にできない違和感を
見事に表現してくれて、かなりスッキリした。

 

他にも、たくさんの言葉を書き留めた。

 

それと同時に

 

子どもたちの未来を考え、
本当に教育を変えようとしている想いに
そして、そんな人がいるってことに
安堵感を覚えたし、心から尊敬した。

 

 

でも、やっぱり”違和感”は、拭いきれなかった。

 

f:id:marina0821:20170507182756j:plain

 

だから、ひたすら、
書き留めた言葉とそこにある自分の想いと
向き合い続けてみた。

(時間を気にせず、没頭できるGW、ホントに幸せ、、♡)

 

そして、ようやく見つけた。

 

f:id:marina0821:20170507184513j:plain

 

それは、単なる「価値観の違い」

 

そして、それが、あたしが大切にしたいもの。

 

 

いわゆる今、「理想の教育」と言われている教育は 
楽しさを重視しているものが多いような気がする。

それは、今のSNS起業ブームにも似たところを感じてる。

 

勉強も、仕事も、人生も、
我慢して、苦労するものが当たり前だった昔。

そして時代は変わって


その対極というか個性や自由が注目されるようになって
今は何でも「楽しむもの」という考えがブームというか、

"正解"とされつつあるような気がする。

 

どうやら、あたしはそれが"苦手"だったみたい。

 

f:id:marina0821:20170507190437j:plain

 

確かにね、勉強も、仕事も、人生も
やらされじゃモチベーションは上がらない。

「楽しむ」ことって、大切だと思う。

 

だけど、なんでも加減も大切だと思ってて


あまりにも「楽しむ」ことにフォーカスを当てすぎると
「楽しもうよ」が「楽しめ!」に聞こえてくる。。

 

アクティブラーニングとか
ディスカッションとか双方向授業とか
おもしろいし、画期的だと思うれど、、

 

自分がもし生徒だったとしたら・・・やりたくない。笑

みんなでわいわい、がやがやよりも
自分のペースで黙々と、のんびりとやってたい。

 

だいたい、今の教育方法でも、上手くいってる子もいるし
新しい教育方法で、上手くいく子もいるだろう。

 

だから、どっちでもよくない?

 

てか、そもそも「上手くいく」ってなんだよ、って話。

 

f:id:marina0821:20170507192733j:plain

 

あたしがずーーっと
「理想の教育」ってものに感じてた"違和感"は
「今の教育はダメだから、こうするべき!」っていう
決めつけ感なんだと思う。

(もちろん、提唱してる人たちにそんなつもりがあるかどうかはわかんないけど)

 

要するに、


たとえどんなに"いい"と言われる教育をしようと
1人1人違うわけだから、反応は違って当たり前なわけで。

 

別に、勉強が教育が楽しくある必要はない。
もちろん、楽しくてもいいんだけど。

 

 

結局、「自分はどう感じて、そして、どうするか」

 

あたしは、英語が好きだし、
こうやって教育について考えるのも好き。

 

だけど、それは生徒たちには関係なくて
ただあたしが好きだから、楽しいからやってるだけ。

 

そのうえで、
生徒1人1人の「感じたこと」を大切にできる教育が
できればいいかな、と思う。
そのやり方は、これからやりながら考えてく。

 

それが"あたしにとって"の「理想の教育」

 

f:id:marina0821:20170507195652j:plain

 

この本があたしに気付かせてくれたのは

「自信や確信は、ときに押し付けになりうる」

って、ことなのでした。

 

「自分」旅行。

f:id:marina0821:20170506234249j:plain

 

 

どこにも出かけてないし
ほぼ誰とも会っていないけれど

 

今年のGWは幸せだ。

 

だって
時間を気にせずに
ひたすら自分の思考に浸れてるから。

 

そうやってずっと、自分の頭の中を旅してる。

  

 

f:id:marina0821:20170506234255j:plain

 

「自分」旅行。

 

気になった本を読んで

気になった言葉を書き留めて

その言葉に反応した自分の思考を探っていく。

 

いつもスムーズにいくわけじゃなく

 

時には疲れちゃって

夢の世界に逃げ込んだり、

ふらりと外に出かけたりもできる。

 

 

そして、

 

そんなことを何回か繰り返して

ふとした瞬間に「自分だけの想い」に出逢う。

 

 

 

…その瞬間がたまらなく、幸せ。

 

もちろん、それまでの時間も。

 

f:id:marina0821:20170506234946j:plain

 

そうやって

今日もまた1つ、大切な想いに出逢えた。

 

 

「ゆるしあえる」世界。

f:id:marina0821:20170505204615j:plain

 

暑さはかなり苦手だけれど、
日中暑かった日の、少し肌寒い夜が好きだ。

 

ノスタルジックな雰囲気や
風の心地よさに誘われて、ふらふらしたくなる。

 

 

そんなこんなで、久しぶりのブログ。

 

f:id:marina0821:20170505205743j:plain

 

もうそれがいつからだったのか忘れたけれど
ここ最近ずっと、なんとも言えない虚無感がまとわりついてて
前を向いて歩いていても、気付けば下を向いている
そんなやるせない、消えてしまいたくなるような気分が続いてた。

 

それでも仕事には行かなきゃいけないし
人を「導く」という仕事上
迷ったり、不安がったり、感傷に浸ってる暇なんてない。

 

こんな感情、仕事に支障「しか」ない。

 

だからいつもだったら
そんな感情にすぐ蓋をしてしまうのだけれど
今回はね、なんか蓋をする気になれなくて。

 

 

仕事中は、とにかく目の前の仕事に集中して
1人になった瞬間にひたすら浸って
また仕事に行って、の繰り返し。

 

ずっと自分を不器用だと思ってたけど、
もしかしたら、意外と器用なのかもしれない。笑

 

f:id:marina0821:20170505211010j:plain

 

そんなバカなことを思いながらも
蓋をせずに感じ続けた名前のない感情が
少しずつ、少しずつ、わかるようになってきた。

 

 

少しでも時間があれば

 

 

たくさん、眠ったし、

 

たくさん、本を読んだ。

 

 

そして、たくさん、自分と向き合った。

 

 

そしてようやく見えてきたもの。

 

f:id:marina0821:20170505211712j:plain

 

 

あたしは、「ゆるしあえる」世界を、つくりたい。

 

 

そんな想い。

何かスピリチュアル的で
すごく崇高な感じに聞こえるけど

 

全然そんなことなくて
というより、まずは自分を「ゆるしたい」だけ。 

 

 

f:id:marina0821:20170505212923j:plain

 

これまでたくさん本を読んだり
コーチングや心理学を学んだりして

 

❝人と自分を比べない❞とか

❝自分を愛する❞とか

 

色んな言葉や考え方に出逢ってきて
助けられてきたけど

 

でも結局、最後にはいつも

 

 

「そのためにはどうしたらいいの・・?」

 

 

って、苦しくなった。

 

 

f:id:marina0821:20170505213830j:plain

 

結局、あたしは、いつも


人と比べては「ダメ」
自分を愛せないと「ダメ」

 

そうやって、自分にダメ出しばかりしてた。
それが1番、自分を苦しめてることに気付かずに。

 

 

すぐ人に嫉妬してしまうことも
相手の顔色を窺ってしまうことも
思ってることを上手く伝えられないことも


人と比べてしまうことも
なかなか自分を愛せないことも

 

それも全部、含めて「自分」なのに。

 

それを克服できない自分じゃなくて

 

そんな自分を受け入れられない
無理にポジティブに捉えようとしてしまう


そんな自分を「ゆるす」ことができない自分が

 

なによりも1番、ゆるせなくて、
だから、ずっとしんどかった。

 

f:id:marina0821:20170505214926j:plain

 

なんだ。あたしはずっと
自分を「ゆるして」あげたかったんだ。

 

そんなことに、ようやく気付けて
久しぶりにようやく前を向けた気がした。外に出た気がした。

 

目に映るもの何もかもまぶしくて
世界ってこんなにキレイだったんだ
なんてことを思いながら

出かけたお気に入りのカフェで
マスターにこんなことを聞かれた。

 

「コミュニケーションって、なんだと思いますか?」

 

f:id:marina0821:20170505215812j:plain

 

咄嗟のことで、答えられなかったけれど

ホントはちゃんと頭に浮かんでた。

 

 

「『ゆるしあう』ことだと思います」

 

 

どんな自分も、どんな感情も、
全てが自分の大切な一部なんだって
受け止めて、ゆるすことができたなら

 

今度は同じように
相手のこともちゃんと
受け止めて、ゆるすことができると思う。

 

そしたら
比較とか、批判とか
そんな概念さえ、なくなって


1人1人の個性が輝いて、
共鳴して、新しいものを生み出していく。

 


それがコミュニケーションであり
“人間らしい"世界なんだと、あたしは思う。

 

 

まずは、あたしから、そんな世界を生きてみようと思う。

 

f:id:marina0821:20170412091543j:plain


教育という「ゆるす」ことが許されない世界で、
自分も、人も、とことん「ゆるして」生きていこうと思う。


それについての話は、また今度。

 

「感じる」ことは、めんどくさい。

f:id:marina0821:20170417165328j:plain

 

だいたいどんな本でも
1日か2日で読み切ってしまうのだけれど
この本はなかなか読み進めることができなくて
1週間以上かけて、ようやく読み終えることができた。

 

『あなたは、なぜ、つながれないのか』/高石宏輔

 

読後感としては


「・・・疲れた」というのが1番近い感情な気がする。

 

疲れたと言っても
学問書や専門書ではないので
決して小難しいことが書いてあるわけでもない。

高石さんの細やかな観察力、表現力で
様々な人間の反応が描写されてあるだけ。

 

そう。かなり、おもしろい。
めちゃくちゃおもしろいのだけれど、読めば読むほど疲れる。
そんな不思議な本だった。

 

f:id:marina0821:20170417171314j:plain

 

 

あんなにも疲れたのは
高石さんの描写を通して色々な感情を「感じた」からだと思う。

 

彼の言葉を通して
これまで自分が色んな場面で感じた感情が蘇り
それをただただ感じ続けていた。

 

そして、「感じる」ことは、めんどくさい。

  

自分がそう思っていたこと
そのきっかけ、そう思うようになる前と揺れ動く"感情"

 

ふと、昔のことを思い出していた。

 

f:id:marina0821:20170417174556j:plain

 

きっと、はっきりとした原因なんてなかったんじゃないかな。
仮にあったとしても、今となってはもうどうでもいい。

 

思春期の不安定なやり場のない心の揺れが、
ただあたしに向けられただけ。

ただ、それだけだったんだと思う。

 

けれど、あたしは少しだけ人より敏感で、感じやすかった。

 

だから

 

彼女たちのエネルギーを受け止めることも
傷付いた自分の感情を外に出すこともできなかった。

 

 

そして、内に押し込めた。

 

 

「感じてはいけない」というルールをつくった。

 

 

f:id:marina0821:20170417175326j:plain

 

あの時、あたしにとって

 

「感じる」ことは、苦しいことだったから
「感じる」ことを、してはいけないことにした。

 

そしたら、いつの間にか


「感じる」ことは、めんどくさいことに変わっていた。

 

そうやって、これまでずっと感じないようにしてきて
それでも消えることはなくて
ずっと心の奥底で眠っていた感情。

 

なんで?どうして?
信じたい。でも、信じられない。
怖い。辛い。守って欲しい。
1人になりたくない。


そんな色んな感情が一気に押し寄せてきて、しんどくなった。

 

 

・・・ほら、めんどくさいじゃん。

 

ずっと押さえつけてきた感情たちの逆襲を受けながら
「ほら、感じないほうが楽じゃん」そう思った。

 

f:id:marina0821:20170417173419j:plain

 

でも、それと同時に思い出した。

 

 

「感じる」ことを、やめる前の自分。

 

 

ああ、あの子、無理して笑ってる。

今の言葉、先生傷付いたよね。

あの2人、喧嘩でもしたのかな。

ほらまた、伝わらないからって、伝えることを放棄した。

あ、今この人、嘘ついた。

 

こうしたら、上手く覚えられる気がする。

今、ボール返せば、落ちる気がする。

 

 

 

そうやって、色んなものを「感じてた」

 

日常も、勉強も、スポーツも
あたしは「理解する」よりも「感じる」ことが当たり前で
それで色んなことが上手くいってた。

 

そして何より、そうやって「感じる」ことを楽しんでた。

 

f:id:marina0821:20170417181355j:plain

 

「感じる」ことは、めんどくさい。人より感じやすいと尚更だ。

 

 

 

 

 

 

「感じる」ことは、めんどくさい。

でも、あたしは「感じる」ことの"楽しさ"も知っている。

 

 

感じることも、感じやすいことも
何も恥じることじゃない。

 

だから、もう1度、あの頃のように「感じて」生きてみたい。

 

今は、そう思う。

「人見知り」塾講師

f:id:marina0821:20170412091543j:plain

 

 

 

「人見知りだ」

 

 

 

というと、驚かれることがよくある。

 

もちろん「でしょうね」という反応をしてくれる人もいるが
どうやら、人見知りというよりは「1人が好きなタイプ」に見えるらしい。 

 

まあ、あながち間違いでもないけれど
1人が好きだから、あまり話さないし、つるまないというよりは
慣れるまでは人見知ってることを気付かれたくなくて
殻に閉じこもっているというほうが正しい。

 

 

f:id:marina0821:20170412094908j:plain

 

 

「人見知り」という言葉は、

 

最初からコミュニケーションを放棄しているとか
被害者感出しすぎだとか、相手を威圧してるとか

なんだか最近よくない言葉とされているようだけれど
それでもやっぱり

 

あたしは「人見知り」だ。

 

別にコミュニケーションを放棄しているつもりもないし
被害者感や威圧をするつもりもない。

 

 

ただ、人に慣れるのに少し時間がかかるだけだ。

 

 

だからよく、気分が落ちてるときなんかは特にだけど
この仕事というかそもそも人と関わる仕事に向いてないんじゃないかと思ったりする。

 

 

だって、講師たちのほとんどは人見知りじゃない。

 

大半の講師は、なんの苦労もなく

担当してない生徒にどんどん話しかけていくし
生徒たちと授業以外で和気あいあいとおしゃべりをしている。


だけど、残念ながらあたしは
そういう"コミュ力"というものを持ち合わせていない。

 

だからこそすごく自然に
それをやってのける人を心から尊敬するし、よく嫉妬もする。

 

いくら「自分は自分だ」と思っていても
自分ができないことをやれる人はやっぱり羨ましい。

 

 

f:id:marina0821:20170412095525j:plain

 

 

一時期、そういう"コミュ力"が必要だと思ってチャレンジしてみたものの

疲れるわ、ぎこちないわ、微妙な空気流れるわで
何1ついいことなんてなかった。

 

だから今は、そもそもやろうとすらしてない。

 

 

チャレンジしてみたからこそ分かった。
いわゆる"たわいもない会話"というものを誰彼構わずするのが苦手だ。

 

部活とか教師や友達のグチとか、何が好きで何が嫌いだとか

 

正直、興味がない。
というより、どうやら「悩んでない」人に興味がもてないようで。

 

それが塾講師として、正社員にならない理由の1つでもある。



f:id:marina0821:20170412100152j:plain

 

 

人に興味を持つというより
授業外でも生徒たちと話をして
担当していなくても自分の存在を知ってもらって
話しかけやすい存在であること

 

それが塾講師としての資質の1つだと思うから。

 

あたしにはそれができないというより
できるようになろうと、あまり思えないから
正社員になろうとも、一生この仕事をしようとも思わない。

 

もちろん、もう少しちゃんとした理由だってある。

 

塾講師として全ての生徒に平等に関わるというよりは
悩んだときや困ったときにじっくり話ができる


そんな「いざというときの人」でありたいな、って。

 

f:id:marina0821:20170412101139j:plain

 

全くいい例えというか表現が思い浮かばなくて
「うわー語彙力(´・ω・`)」となってるんだけれど

 

いつでも楽しく話ができて
一緒にいる元気になるような
太陽やヒマワリのような存在も、もちろん大切。

 

その一方で

 

普段は目立たないけれど
何か大きな壁にぶつかったとき
「ねえ、どうしよう…」って、静かに話ができる
月のような、海のような存在。

 

そんな存在でありたいなーと改めて思うのです。

 

 

f:id:marina0821:20170412104136j:plain

 

人に興味がないといより
「悩んでない」人に興味がないとい変わり者で

あんまり騒がしいのが好きじゃなくて

 

慣れるのに少しだけ時間はかかりますが
慣れてしまえばじっくりゆっくり向き合い、受け止めます。

 

あ、元気な姿はよかったねーって、遠くから見守ってます。

 

そんな「人見知り」塾講師も、ありかな、なんて思うのです✿
さあ、人見知りは今日も行く!笑

 

 

自分を責めるということ

f:id:marina0821:20170410221611j:plain

 

ここ数年、ずっと感じていたことがある。
あたしは

 

 

「自分を責めることが得意だ」

 

 

この性格のせいで苦しいんだ。
ずっとそう思ってなんとか治そうとしてきた。

 

自分を責めないように、責めないように。

 

でも自分を責めてる自分に気付いては
また、自分を責めてきた。

 

なんという負のループ・・・もしや、あたしはドMなのか。

 

f:id:marina0821:20170410222919j:plain

 

確かになよなよした人よりは
ちょっと意地悪なくらいの人のほうが好きだけれど
でも非常識すぎるほどの俺様はムカつくというか引いてしまう。

なんて、好みのタイプはさておいて
どれだけ自分を責めるかというと

 

 

例えば寝坊すれば、

まずは起きれなかった自分を責め
早く寝なかったことや
昨日のうちに今日やることをやらなかったことを責める。

 

1日何もしたくなくてボーっと過ごせば
やるべきことと向き合わなかった自分を責め
こんなんだから上手くいかないなんだと過去の失敗を引っ張り出す。

 

酷い時にはその矛先が他人に向くこともある。

 

授業をして
生徒たちの反応が悪ければ
まずは自分の力不足や準備不足を責め
そして「受験生になれてない」と生徒たちを責める。

 

そして、そんな自分に気付き、また責める・・・。

 

 

ここまでくると、救いようがないというか
なんかちょっと笑えてさえくる。

 

 

f:id:marina0821:20170410223702j:plain

 

Facebookにも少し書いたのだけれど
こうして発信を再開してみて


自分の想いを表現できる場があること
そこに反応してくれる人がいることに
とってもとっても幸せを感じるのだけれど

 

それと同時に「嫌だな」と感じることもある。

 

それは投稿に関係のないコメントだったり
よくわからない大量のいいねだったり。

 

公に発信している以上
仕方ないことだとわかってはいるのだけれど
前に発信していたときもこの対処にだいぶ頭を悩ませた。

 

 

 

自分の想いを綴った投稿に
関係のないコメントをされるのは
やっぱりいい気はしないし

よくわからない男性からのいいねは
正直、気持ち悪い。(もちろん、そうじゃない男性もいるけれど)

 

なんとなくだけれど
コメントやいいねだけで
あたしという「人間」に興味を持ってくれているのか

それとも「女」としてのあたしに興味をもっているのかわかってしまう。

 

あたしとはSNSを使っている目的が違うから
後者の場合は、やっぱり気持ち悪いと思ってしまう。

 

 

そこまで感じているのだから
ブロックするなり、コメント削除するなり、
友人限定の公開にするなり潔くしてしまえばいいのに

 

そこでまた、あたしは自分を責めてしまう。

 

色んな目的の人がいて当たり前。
それをあたしの都合で拒絶していいのだろうか。
それはわがままなんじゃないだろうか。

 

 

・・・なんて。どこまでいい人なんだ。あたし。

 

 

f:id:marina0821:20170410224958j:plain

 

なんてノリツッコミをしながら
ぐるぐる、もやもや、自分を責めていて

 

ふと、気が付いた。

 

 

「自分を責める」=「自分の感じたことを否定している」

 

 

そのサインなんだと。

自分を責めること自体をなくそうと
人の目や正解なんて気にせず
自分が心地よい選択をし続ければいい
それができる自分になればいいと思ってたけれど

そんなに悪者扱いしなくてもいいんじゃないかと。

 

 

自分を責めているときは


自分がダメなときでもなく
世間的に間違っているときでもなく

 

ただ単に自分のなかのもう1人の自分が

 

「ちょっとちょっと、嘘ついているよ」

 

 

そうやって教えてくれているときだ。

自分の最初に感じたことを
なんらかの理由で押し込めて
自分がしたくない選択をしてしまっているときだ。

 

 

「自分を責めることが得意だ」

 

 

それはつまり

 

 

「自分に嘘をついていることに気付くことが得意だ」ということ。

 

 

 

なんだ、立派な長所じゃないか。
自分を責めないようにしようとすると
何か無理してる気がして、それはそれで実はしんどかったので
このことに気付いてホッとした。

 

 

f:id:marina0821:20170410230344j:plain

 

なので、とりあえずデスク正面の壁にこんなものを貼っておいた。

 

長年、短所だと思っていたことも
見方を変えれば実は悪くないのかもしれない。

 

そんな風に思えて、また少し自分も悪くないと思えた。