「強い女」
そういえば、昔から「強い女」に憧れていた。
たぶん、最初にそれを意識し始めたのは、小学5年頃だと思う。
それまでぼんやりとしていた、男女の区別が明確になり始め、
周囲の対応の変化にも、少しずつ変わっていく自分の身体にも、戸惑いを隠せなかった。
そんな急な変化になかなか対応できなかったし、
とにかく負けず嫌いで、「女だから」とバカにされるのが嫌でたまらなかった。
だからそのエネルギーというか、敵意というべきかなのか、
それらは全て、"男"という生き物に向けられていた。
ありがちだけれど、自分のことを俺と言ってみたり、暴力的に振る舞ったりもしていたし、勉強であれ、運動であれ、”男”に負けるのだけは絶対に嫌で必死に食らいついていた。
そんな小学生時代だった。
それでも、中学に上がる頃にはさすがに男女の差というものもさすがに受け入れられるようにはなった。
そして、それと同時に敵意は、憧れ・仲間意識へと変わっていた。
自分は男にはなれないけれど、
それでも、女として「男のような強さが欲しい」と思い始めていた。
だから、女として褒められるよりも「女とは思えない」と言われることのほうが嬉しかった。
その感覚は高校までずっと続いていたし、だからなのか高校では女子によくモテた。
中学生当時、周囲が誰が好きだとか、誰と誰が付き合うだとか
そんな恋愛話に色めきだっていても
私にとってほとんどの男は、恋愛対象というより、仲間にしか思えなかった。
自分出来ないことができる男という生き物はすごいと思っていたし、自分もそこに少しでも近づきたいと思っていた。
ただ、そんなあたしの「強さ」への想いを
男たちは受け入れてくれたけれど、
女たちには受け入れられなかった。
たぶん、そこから私の「強さ」は、歪み始めていったんだと思う。
憧れであり、自分を鼓舞するためのものだったはずの強さは、
いつしか自分に向けられる心ない言葉や好奇の目から
自分を守るための"武器"へと、変わっていった。
それは鎧でもあり、人を傷付ける刃にもなった。
そうやって自分を守ることに必死で過ごすうち
人を寄せ付けない威圧感と
人を攻撃する強い言葉こそが
「強さ」なのだと思うようになっていた。
なめられたら、弱さを見せたら、やられる。
そんなどこぞの不良ドラマのような台詞は
高校に上がって、人間関係が落ち着いてからも、
ずっと頭の片隅にこびりついていた。
「サバサバしている」「毒舌」「ドS」
そんな形容をされるような性格も、
ロックやV系にはまったり、黒が好だったり、
キツめのメイクや煙草に憧れたのも、
全部、そうすれば「強い女」でいられると思ったから。
弱い自分を隠せると思ったから。
ただ、それだけだった。でも、必死だった。
けれど最近、ようやくわかったような気がする。
キツめのメイクも、煙草も、レザージャケットも、
相手を打ちのめすような厳しい言葉も、
何一つ必要ない。
本当の「強い女」とは
どんな状況でも、
そしてたとえ1人でも
自分が好きなものを好きだ
と、とびきりの笑顔で言いきれるそんな女性で、
たとえ、そうでなかったとしても
私はそんな「強い女」で、ありたいと思っている、ということが。
だから
これからは、そうやって生きていこうと思うし、
これまでのそんな自分のことも好きだと、
笑い飛ばしてしまおうと思っている。
「証」なんて、なんの意味もない。
昔、初めてペアのネックレスを貰ったとき、たまらなく嬉しかった。
まだお互い学生だったから高いものではなくて
お風呂に入るとき以外はずっと身につけていたから
少しずつ少しずつ、塗料がはがれていってしまったけれど、
なんだかそれさえも、嬉しかった。
そんな淡い恋をしていたあの頃から、月日は流れ、
行方のわからなくなったネックレスとともに
そんな気持ちも、どこかに置いてきてしまったのかもしれない。
正直、過去の恋愛話は好きじゃない。
相手を責めるつもりはないし、あの頃の自分を否定する気もないけれど、
少なくとも、あの頃のあたしは、相手も自分も大切にしない恋愛ばかりしていた。
今じゃ考えられないけれど、
四六時中、相手のことを考えていたし、相手にも同じでいて欲しかった。
束縛こそしなかったけれど、されるのは嬉しかったし
求められることが、愛されている証だと思い込んでいた時期もあった。
相手のことも、自分のことも、見ようとしていなかった。
そんなどうしようもない恋愛ばかりして、自分で自分を傷付けてきた。
だからいつも不安で、人一倍「証」を、求めてしまっていたのかもしれない。
昔から「グレーな関係」が苦手で、
友達か恋人か、好きだと言われればなぜ、どこが好きなのか
そんなことをいつもはっきりさせたがっていた。
もちろんそれは、恋愛に限ったことではなくて
中学の頃、クラスの女子の間で孤立していたあたしに
何の迷いもなく差し伸べてくれた友人の手さえも、握ることができなかった。
そうやってあたしはいつも
相手の気持ちも、自分が愛されていることも
何ひとつ信じられなくて、疑って、
常に何か「証」となるものを求めていたんだと思う。
きっとあの時もらったネックレスは
そんなあたしにとって、心地よい鎖であり、
自分が愛されていると信じられる唯一の「証」だったのかもしれない。
そんな歪んだ愛しか知らなかったあたしも
ようやく、少しずつ「証のない愛」がわかるようになった。
それはとても不思議な感覚で
初めは2人の関係に
はっきりとした「名前」を欲しがって、困らせてしまった恋。
2人の関係に
はっきりとした「約束」を欲しがって、1度終わってしまった恋。
そして終わったその瞬間に
自分がどれだけ愛されていたのかを
そして、自分がどれだけ愛していたのかを
思い知らされた恋。
そのとき、やっとわかったんだ。
あんなに欲しかった「名前」にも「約束」にも
そして「証」にも、なんの意味もないということ。
私はあなたが好き。
ただそれだけで十分なんだということ。
そう胸を張って言える自分でいようと、思わせてくれた恋ができた。
昔のような恋をもう繰り返したくはないけど
全部、必要だったと思える。
恋愛なんて必要ないと思った時期もあったけど
きっとこうやって、理想の自分になっていく、そんな気がしてる。
時間は平等に流れていく。
4年前、担当していた生徒が久々に顔を出しに来た。
顔を出しに来たといっても、妹の迎えに来ただけなのだけれど
彼女と会ったのは本当に久しぶりで
受験シーズン、制服の下からも上からも
雪だるまのように着込み真冬の帰り道を自転車で帰っていた彼女も
今では車を運転し、妹を迎えに来るようになったんだなと、時の流れを感じた。
社会人、1年目。
まだ化粧に慣れていないのか、たまたまなのかわからないけれど
少し白浮きした顔にあの頃と変わらない笑顔で
「もう既に辞めたい」と、笑う。
そういえば、高校生の頃から責任感の強い子だった。
仕事にも慣れ、背負っているものの重さを痛感し始め、
責任感の強い彼女にとっては今が1番しんどい時期なのかもしれない。
次の授業までの少しの間だったけれど
たわいもない話をして、授業に向かった。
もう4年も経ったのかと、思うと同時に
彼女の間で、時間が平等に流れていたことに少し不思議な感覚を覚えた。
"時間は平等に流れていく"
そんなことは、当たり前なのだけれど
会わなかった数年間、彼女との時間は止まっていた。
あの日、話をするまで、あたしの中で彼女は高校生だった。
けれど、
完全防寒で自転車に乗っていた彼女は、今は暖房の効いた車を運転している。
些細なことでよく笑っていた彼女が、今は仕事を辞めたいと笑う。
そしてあたしも、
あの頃は見ることができなかった彼女の目をまっすぐ見ながら話を聴いていた。
会うまでは、こうして話をするまでは、
確かに止まっていたはずの時間が動き出した。
それは嬉しく、そして、少し寂しく感じる瞬間でもあった。
"時間は平等に流れていく"
今この瞬間も、
あたしの知らないところで、
あの人は大人になり、あの人は傷付き、あの人は誰かを愛している。
誰もがそんな時間の流れを受け入れ、また明日も1日を生きていく。
なんだかそんな日々が愛おしく、そして少し寂しい。
まじで僕に、愛される気あんの?
ここ最近、毎日聴いている曲がある。
あいみょんという少しふざけているような名前のアーティストの『愛を伝えたいんだとか』という曲。
音楽アプリでたまたま聞いて以来、何度も何度もリピートしている。
タイトルはその曲の歌詞の一部なのだけれど、
この一言でこの曲が好きになったといってもいいほど、やられた。
「愛してる」や「愛されたい」という言葉は、
魅力的な言葉だとは思うけれど、特に歌詞の中では正直、聞き飽きていた。あまりに大量に使われすぎていて、お腹いっぱいだった。
だからこそ、そんな中でのこの言葉は強烈だったんだと思う。
この短いフレーズに
僕は君を愛するという「覚悟」とほんの少しの「狂気」
それを感じ、たまらなく魅了された。
出勤は必ず、この曲を聴きながらが最近のお気に入り。
これから受験生たちに英語の授業をしていくというのには、
あまりにも不釣り合いすぎるこの曲。
けれど、その不釣り合いさがなんだか背徳を感じさせて、むしろやる気がみなぎってくるあたしは、相当の変わり者なんだと思う。
学校の先生にしても、あたしたちのような塾講師にしても、
人を支援する仕事って、正解がない世界だ。
そしてそんな仕事をわざわざ選び、毎日ああでもないこうでもないと悩みながら、しかもそれを好き好んでやっているあたし達は、間違いなくドMだなんて話を少し前に同じような仕事をしている先輩とした。
対人に関しては、ドSなほうだとは思うし、よくそう言われるのだけれど、そうやって考えると自分に対しては、間違いなくドMだよな、なんて最近よく思う。
そんな仕事に関してドMなあたしは、人前、特に大人数の前で話すのが苦手だ。
…そして、それを仕事にしている。
こうして文章を書くのは好きだけれど、どうも数字や論理というものとどうも相性が悪く、人前で話をするとなると、すぐに自分が何を言っているのかわからなくなる。
そして何より、自分に向けられた多数の眼が怖い。
そこからあまりに多数の感情が伝わってきて、さらにそれが自分の感情と入り混じって、人数が多ければ多いほど、訳がわからなくなる。
つまり、人の眼を見るのが苦手なのだ。
それでは伝えたいことも伝わらないと、頭ではわかっているのだけれど、90分という決められた時間の中で、その部屋にいる唯一のスピーカーが何も話せなくなることほど恐ろしいことはないと、いつの間にか最もらしい言い訳をでっちあげ、生徒たちの少し上を見ながら話をするのが当たり前になってきた。
その癖、全く伝わらないといつも嘆いていた。
ところが、いつものように生徒たちの少し上に目線を泳がせながら、受験生としての自覚を持つようにと、話をしていたある日。
ふと、あのフレーズが頭をよぎった。
「まじで僕に、愛される気あんの?」
授業とも、受験とも、全くなにも関係のない、不釣り合いなこのフレーズ。
けれど、そのときようやく全身で認めることができた。
この眼を受けとめる「覚悟」が足りなかったのだと。
不安そうな眼、眠そうな眼、少し敵意の込められた眼、信頼をおびた眼…
いま目の前にあるこの多数の眼を正面から、受けとめる覚悟が今のあたしには必要なのだと。
そこにはなんの根拠もないけれど、その瞬間からまっすぐ1人1人の眼を見て話す自分がいた。
それは、
彼らの心に言葉を届けるのに、なくてはならない覚悟。
今よりも自分を好きになるために、必要な覚悟。
生徒1人1人を信じ、受けとめ、愛する覚悟。
ずっと何か足りないと思っていたものは、これだったんだ。
もう何の迷いも、恐れも、ない。
だからいつか、たくさんの生徒たちを目の前にして、
こう言える気がしてる。
「まじで僕に、愛される気あんの?」
「わかりあえない」からこそ、愛おしい。
唐突だけど、決めつけられるのが嫌いだ。
よく「あなたは、○○だからね」と言ってくる人に出会う。
彼らはさも「私はあなたのことをわかっている」と言いだけにその台詞を言ってくるのだけれど、
だいたいそういうときはいつも、外れている。
たぶん、彼らは色んな人にそう言っては
外しているんじゃないかと思う。
なんて偉そうに言っているけど、
似たような苦い経験を何度もしてきている。
そのほとんどは「恋愛」でだ。
自分で言うのもなんだけれど、
基本的に、他人に関心があまり持てない性質で、内容のない会話にはめんどくさいから参加しないことがほとんどで、どうしても参加しなければならないときは、聞いている振りだけして適当に流している。
そしてその反動からなのか、人を好きになると、その人のことを知りたくて知りたくてたまらない衝動に駆られてしまう。
それが「恋」というものだと言ってしまえば、それでおしまいなのだけれど、
ほとんどの人がわかっているように、残念ながらその衝動が完全に満たされることはないし、持ち続ければその先には恋の終わりしか待ってない。
そもそも、どんなに気が合ったとしても、どんなに愛し合おうとも、たとえ血が繋がっていようとも
私たちはそれぞれが「1人」の他人である。
どんなに愛し合い、どんなに信頼し合った2人にも、知られたくない姿や知られたくないことの1つや2つあるはずで、そんな2人が上手くやっていけるのは、わかりあっているからではない。
「わかりあえない」ことを
お互いが「1人」の他人であることを
ちゃんと受けとめているからだと、思う。
極論かもしれないけれど、
人が完全にわかりあえることはないし
互いが別々の「1人」であるということを
受けとめることができる人だけが
本当に誰かを愛したり、優しくできるのだと思うし、
グレーの心地よさを、愛せる人でありたいと思う。
人と完全にわかりあえると、思っている人の愛は「おしつけ」
人は完全にはわかりあえないと、わかっている人の愛は「尊重」
そんなことを、ふと考えた。
矛盾だらけの、愛。
四六時中、誰かのことを想う人生も素敵だと思う。
でも、
あたしはそんな生き方は選びたいとは思わない。
だから恋をするといつも
振り回されるより、振り回す人になりたいと思う。
でも、
そんなことを思っている時点でもう既に、振り回されていて、
自分がめんどくさい女だということに気付かされる。
でも、
そんなあたしのことを「わがままで、自由な女」と
言ってくる人たちもいる。
でも、それはいつも決まって、全く興味を持てない人ばかりだ。
我ながら、矛盾だらけの生き物だ。
そんなことを考えながら
既読のつかないLINEを気にしているあたしがいる。
どうやらまだ、愛しい人を振り回す女にはなれないらしい。
さよなら、9月。おかえり、10月。
9月が終わった。
たったそれだけのことなのに
自分が何かをしたわけでもなく、いつの間にか時が経って
9月という月が終わっただけなのに
なんだかとても、すがすがしい気分なのは、それだけ9月に大きなものを捨ててきたということ。
たった1つ何かが崩れただけなのに
どうしてああも簡単に、日常の歯車は狂い始めるのだろう。
恋愛がうまくいかないときは、仕事もうまくいかない。
仕事がうまくいかないときは、友人ともうまくいかない。
友人とうまくいかないときは、見ず知らずの人とさえうまくいかない。
そうやって全てが、狂い始めていった。というより、
全てを狂わせていってしまった。と言ったほうが正しいのかもしれない。
この間、「好き」とは「根拠はないが、自信を持って、たとえ間違ってもいいから、それを選びたい」という覚悟をもつことなのだ、と書かれてある本に出逢った。
確かになぜかこの9月は、恋愛にしても、仕事にしても、こうやって言葉にすることにしても、「好きなものを好きだ」と認めなければいけない時が度々訪れた。
けれど、「好きなものを好き」と言ってしまうことで
1人になってしまうような気がして、そのことになぜかひどく怯えてしまって「好きなものを好き」だと、ずっと言えないでいた。
残念ながら、これは本当に大切で心から好きだから、好きだと言えないんなんて、そんな綺麗な話じゃない。
ただ、好きだと言ってしまうことで、その相手から拒否されたり、そんなものが好きなのかと好奇の目で見られたりするのが、ただただ怖かったというどうしようもないくらい情けない話だ。
昔、ひっそりと書いていたポエムを同級生に笑われ、たまらなく傷付いたときのような想いをもう2度としたくないというそんな情けない話。
そんな昔の話をふと思い出して、気付いたことがある。
笑われるなんて微塵も思わずに、夜な夜なノートにポエムを書いていたあの頃は、1人の怖さなんてまだ知らなかったし、だからこそ、1人に幸福を感じていた。
好きなものは好き。
嫌いなものは嫌い。
と、はっきり言葉にする覚悟を持っていた。
歳を重ねて、1人の怖さを知ってしまってからは、
1人に怯え、自分以外の何かにすがることで、その怖さを誤魔化してきた。
自分が好きな人が自分のことを好きかどうかとか、自分の言葉にどれだけいいねが貰えるかとか、そんなことにばかり頭を悩ませてきた。
だから、「好きなものを好き」と言うのが怖かった。
あの頃に、戻ろう。
相手の気持ちなんて気にもせず、ただ好きという想いを募らせていた、あの頃の自分に。
誰かに評価されることなど気にもせず、ただ自分の想いを言葉にしていた、あの頃の自分に。
そうやって1人で幸せを感じながら、1人という絶望を飼いならしていた自分に。
9月。それは、ずっと1人に怯えていた自分。
10月。それは、1人で幸福に絶望していた、あの頃の自分。
さよなら、9月。おかえり、10月。
エッセイなんて自分には書けないと思っていたけれど
やっぱり書いてみたいと思ったから、これから書いていこうと思う。
たぶん、それが1番好きな形だから。