まじで僕に、愛される気あんの?
ここ最近、毎日聴いている曲がある。
あいみょんという少しふざけているような名前のアーティストの『愛を伝えたいんだとか』という曲。
音楽アプリでたまたま聞いて以来、何度も何度もリピートしている。
タイトルはその曲の歌詞の一部なのだけれど、
この一言でこの曲が好きになったといってもいいほど、やられた。
「愛してる」や「愛されたい」という言葉は、
魅力的な言葉だとは思うけれど、特に歌詞の中では正直、聞き飽きていた。あまりに大量に使われすぎていて、お腹いっぱいだった。
だからこそ、そんな中でのこの言葉は強烈だったんだと思う。
この短いフレーズに
僕は君を愛するという「覚悟」とほんの少しの「狂気」
それを感じ、たまらなく魅了された。
出勤は必ず、この曲を聴きながらが最近のお気に入り。
これから受験生たちに英語の授業をしていくというのには、
あまりにも不釣り合いすぎるこの曲。
けれど、その不釣り合いさがなんだか背徳を感じさせて、むしろやる気がみなぎってくるあたしは、相当の変わり者なんだと思う。
学校の先生にしても、あたしたちのような塾講師にしても、
人を支援する仕事って、正解がない世界だ。
そしてそんな仕事をわざわざ選び、毎日ああでもないこうでもないと悩みながら、しかもそれを好き好んでやっているあたし達は、間違いなくドMだなんて話を少し前に同じような仕事をしている先輩とした。
対人に関しては、ドSなほうだとは思うし、よくそう言われるのだけれど、そうやって考えると自分に対しては、間違いなくドMだよな、なんて最近よく思う。
そんな仕事に関してドMなあたしは、人前、特に大人数の前で話すのが苦手だ。
…そして、それを仕事にしている。
こうして文章を書くのは好きだけれど、どうも数字や論理というものとどうも相性が悪く、人前で話をするとなると、すぐに自分が何を言っているのかわからなくなる。
そして何より、自分に向けられた多数の眼が怖い。
そこからあまりに多数の感情が伝わってきて、さらにそれが自分の感情と入り混じって、人数が多ければ多いほど、訳がわからなくなる。
つまり、人の眼を見るのが苦手なのだ。
それでは伝えたいことも伝わらないと、頭ではわかっているのだけれど、90分という決められた時間の中で、その部屋にいる唯一のスピーカーが何も話せなくなることほど恐ろしいことはないと、いつの間にか最もらしい言い訳をでっちあげ、生徒たちの少し上を見ながら話をするのが当たり前になってきた。
その癖、全く伝わらないといつも嘆いていた。
ところが、いつものように生徒たちの少し上に目線を泳がせながら、受験生としての自覚を持つようにと、話をしていたある日。
ふと、あのフレーズが頭をよぎった。
「まじで僕に、愛される気あんの?」
授業とも、受験とも、全くなにも関係のない、不釣り合いなこのフレーズ。
けれど、そのときようやく全身で認めることができた。
この眼を受けとめる「覚悟」が足りなかったのだと。
不安そうな眼、眠そうな眼、少し敵意の込められた眼、信頼をおびた眼…
いま目の前にあるこの多数の眼を正面から、受けとめる覚悟が今のあたしには必要なのだと。
そこにはなんの根拠もないけれど、その瞬間からまっすぐ1人1人の眼を見て話す自分がいた。
それは、
彼らの心に言葉を届けるのに、なくてはならない覚悟。
今よりも自分を好きになるために、必要な覚悟。
生徒1人1人を信じ、受けとめ、愛する覚悟。
ずっと何か足りないと思っていたものは、これだったんだ。
もう何の迷いも、恐れも、ない。
だからいつか、たくさんの生徒たちを目の前にして、
こう言える気がしてる。
「まじで僕に、愛される気あんの?」