ファインダー越しの私の世界
自分が人よりも多感なのか、それともこれが普通なのか、
こんな話を誰かとしたことがないからわからないけれど
私は時々、感情の整理が追い付かなくなることがある。
それはいつも定期的にやってくるのだけれど
なんだかまるで、生理が2回来ているようで
つい最近まではとにかく、この時期が嫌で嫌で仕方なかった。
だけど今は、そんなごちゃごちゃになってしまった
目に見えない自分の感情を「言葉」という形に変え、
そして、その言葉に、ノートという「居場所」を与えてやることで
頭の中にかかった靄が少しずつ晴れていく
そんな瞬間がとても好きだったりする。
その度に、自分が生まれ変わっているような気がするからだ。
たぶん、もともと、自分の手で
自分の感情に形を与えるということが、好きなのだと思う。
昔から文章を書いたりすることが好きだったし、
自分と向き合うようになってからは特にこう思うことが増えた。
「表現者、アーティストでありたい」と。
といっても、初めはそんな自分の想いが不可解で仕方なかった。
学校での美術の成績はいつも悪かったし、
美術品の良さもいまいちわからないし、
音楽は好きだけれど、歌手になりたいわけでもない。
もちろん文章を書くのは好きだけれど、
小説家になりたいわけでも、ブロガーと呼ばれる人たちのような
お役立ちブログを書いていきたいわけでもない。
どうやら、私にとっての表現者、アーティストとは、
世間一般のそれとは少し位置づけが違うようだ。
「自分の感じたものを、形にしたい」
そんな想いから、私はその言葉を選んでいた。
つい先日、それに気が付いたと同時に、頭に浮かんできた言葉がある。
「ファインダー越しの私の世界」という言葉だ。
たぶん、TwitterかInstagramで見たものが
たまたま印象に残っていたのだろうけど
それがなんだか妙にその時の自分の想いを表していた。
「自分というファインダー越しに見える世界を、形にしていきたい」
あんなに靄だらけで、何も見えなかったはずの頭の中に
その瞬間、一筋の光が差し込むのを感じた。
投げ出さずに向き合ったからこそ得られる、全てが繋がる感覚。
もしかしたら、他のどんな瞬間よりも
この感覚を味わっているときが私にとって、
1番幸せな瞬間なのかもしれない。
だとすれば、つくづく変態だと思う。
表現者、アーティストでありたいという想いに
気が付いたのは、もうずっと昔のこと。
その想いを満たすためにブログを書き始めてみるのだけれど
なぜかいつも、気が付いたときには
自分が何を書きたいのかわからなり、書けなくなる。
そしてまた、想いに突き動かされ書き始めては、書けなくなる。
そんなことをずっと、繰り返してきた。
ところで、学生時代のアルバイトを含めれば、
私が、塾講師として教育の世界に関わって、もう10年近くになる。
自分で選んだ場所とはいえ、ずっと疑問だった。
さほど人に興味がなく、1人でいることを好むにも関わらず、
ずっと離れることができずにいたこの世界。
そんな矛盾だらけだった自分がまた1つ、繋がった。
私は、私というファインダー越しに見ているこの世界を
「言葉」や「授業」という形で、表現していきたい。
そして、そうやって表現することで、
そこに1人でも多くの人の「居場所」をつくりたい。
私の表現した言葉や授業に共感したり、そこから気付きを得たり、
時には反感や苛立ちを覚えるかもしれない。
それでも、その瞬間、私のつくった"世界"がその人の居場所になる。
そして、そうやってそこが誰かの居場所になることで、
それは、私の「居場所」にもなる。
物理的な制約も、時間的な制約も、何一つない。
自分が好きなときに、好きなだけいられる。
そんな「目には見えない居場所」というものを、
私はずっと、求めていた。
1人が好きで、独りが嫌いな私に、ぴったりな居場所を。
きっとそれが、
私が表現者でありたいと願う1番の理由なのだと思う。
だからきっとこれからも、
自分というファインダー越しに見える世界を
そんな自分という"世界"を愛し、
そこに見知らぬ誰かと自分の「居場所」をつくっていくために、
私は、表現し続けてくのだと思う。
表現者、アーティストで、あり続けるのだと思う。