世界は、ひとつなんかじゃない。
さっきまで、なんともなかったはずの笑い声が
急に、耳にまとわりつき始める。
そうやってよく笑うところも、オーバーリアクションで、空気の読めないところも、それでいて人懐っこくて、いとも簡単に人から愛されてしまうところも全て、吐き気がするくらい嫌いだ。
この瞬間、私は彼女の世界に入り込んでいく。
彼女という人間の中から、私自身を眺め、
そして、彼女を通して、自分に自分でダメ出しをし始める。
「私にとってはこれが普通なのに、なんであなたにはできないの?」
彼女には当たり前にできて、私にはできないことを探しては、そうやって、嫉妬や不安を自分で、生み出していく。
「世界は、ひとつだ」
なんて一体、誰が言い出したのだろう。
この言葉を聞いて、真っ先に思い浮かぶのは、まだ他人の世界なんて知らなかった小学生の頃に音楽の授業で歌った「小さな世界」という曲だ。
世界はせまい
世界はまるい
世界はおなじ
ただひとつ
この歌詞に別のメッセージが込められていることくらいわかっているし、だからこの歌詞を批判しようなんて思ってもいない。
ただ、私の心にはそのメッセージではなく、別の形で思いのほか強く残っていただけのこと。
「同じでなければいけない。ひとつでなければいけない」と。
けれど、私たちは一人一人、見えてるもの、感じてるものが違う。
それを言葉に表現できていないだけで、私たちはきっと微妙に違う世界を毎日見ながら生きているのだと思う。
そうやって自分が見て、感じたもので創られた、自分だけの世界で、私たちは生きている。
そして、それぞれの世界の一部を誰かと共有し、そしてまた別の部分を別の誰かと共有し、そうやって複雑に絡み合ってこのは世界が出来ているのだと思う。
だから、世界は同じでも、1つである必要もないし、
一方で、「自分」という世界は、1つしかない。
唯一無二の存在なのだから、他の誰とも比べる必要なんてないはずなのに、たくさんの人が人と比べてしまうことに悩み、苦しんでいる。
SNSを通して、自分以外の誰かの世界を感じやすくなった今、
そこに溢れている一見、魅力的で、同じように見える世界が全てのように思えてしまうから
私たちは、どうしても自分の世界を見失いやすい時代に生きているのかもしれない。
私もよく、誰かの世界に入り込んでしまう。
もちろん、それはいわゆる共感力として、強みになることもあるし、誰かの世界を知ることは楽しい。
けれど、使い方を誤れば、それはすぐに嫉妬や不安を生み出してしまう。
だから、最近は特に何か強い感情を感じたときは「今いるのは自分の世界なのか、他人の世界なのか」意識するようにしている。
そうするようになって、かなり楽になった。
それと同時に、今までの自分を好きになるだとか、自分を信じるという意識が、どれだけ根性論で、苦しいものだったのかにも気付けた。
世界は、ひとつなんかじゃない。
今、あなたがいるその世界は、一体、誰の世界?
私の世界と、誰かの世界は違って当然なのだからこそ、
自分の世界を見失わないように、
自分という世界を守り、育てながら、
今この瞬間に幸せを感じながら、生きていけたらなと思う。
そして時々こうやって、自分の世界の一部を誰かとシェアすることも楽しみながら。
私は、私の世界を生きていきたい。