否定からは、何も生まれない。
ここ数ヶ月、基本的に作業は家でやっていたのだけれど
昨日はなんだか家じゃどうも集中できなくて、近くのタリーズへ出掛け、夏期講習のテキスト内容を練っていた。
今年はいつもに比べて作るテキストが多いんだよなあ…なんて心の中で弱音を吐きながら、テクニックなどの知識情報ではなく
「夏期講習で伝えたいこと」
まず、自分の想いを明確にしていくのが、毎年の流れ。
そもそも、点数を上げることや英語そのものに対して、そこまで興味を持てないので、まずはこうして、
自分の想いを明確にしないことには、やる気が起きないのだ。
なぜ、勉強するのか
最近は少なくなたけれど、そんな質問を生徒からされるよくあって
「将来のため」だとか「自分を磨くため」だとか、
色んな理由を考えてきたけれど、最近のお気に入りは、
『可能性を拡げるため』
という答え。
それはもちろん、受験できる大学を減らさないという意味も含まれるけれど、正直に言えば、そんなものおまけにすぎない。
もっと根本的なところから話をすれば、勉強をするということ、点数を上げるということは、
『どれだけ自分と向き合えるか』だと思ってる。
模試や問題集を解いて、自分の現在地を知る。つまり、自分のできていないところをきちんと認める。
そして、そこからどこまで行きたいのかを明確にし、そこに行くために必要なことを洗い出し、あとはひたすらそれを実行していく。
よく「何をすべきか」にばかりフォーカスして、その答えを求めてくる生徒がいるけれど、現在地も目的地も曖昧で、そんなものわかるわけがない。
とは言え、当たり障りのないというか、平均的なテクニックというものが存在するのも事実で、昔はよくそれを教えてしまっていた。
というよりも、それを見つけて、教えてくのが仕事だと思い込んでいた。
けれど今は、そんなことを聞かれても答えない。
逆に「今、どんな状況で、どうしたいの?」と質問をし返す。
それはやっぱり、小手先のテクニックを教えて目先の結果を出させても、その生徒の『可能性』は拡がらないと思うし、
そもそもそんな風に結果を出したところで、意味がないと思う。
どうせしなければいけないのなら
今、大学入試改革だと言って、お偉いさんたちが色々と考えていらっしゃるようだけれど、どんなに入試の形を変えたとしても、根本は変わらないと思っていて
結局、大人たちがどんなに改革をしようとも
子どもたちにとって「勉強」が『しなくてはいけないもの』であることは変わらないと思う。
そして、どんなに興味がないとは言え、塾講師という立場上あたしは、生徒たちの点数を上げるような夏期講習をしなければいけない。
「勉強なんてしたくないけれど、しなければいけない」
「点数なんて興味はないけれど、点数につなげなければいけない」
悲しいけれど、それだけは、変わらない事実だ。
そんな事実や今の日本の教育制度、学校の授業内容、学校の先生たちの進路指導など、到底、受け入れがたいことはたくさんある。否定し始めればきりがない。
でも、どうせ逃れられないのだったら、そこに意味を見出せばいい。
否定からは、何も生まれない。
誤解のないように言っておくと、あたしはこの仕事が決して嫌いなわけではない。むしろ、好きだからこうして続けている。
この仕事が好きだけれど、現状の教育には疑問を持っているというだけ。
そしてこの先、この仕事をずっと続けていくのかどうか、現状の教育を変えるために奮起するかどうかは、正直わからない。
ただ1つだけ言えることは・・・
「夏期講習はやってくる」ということ。笑
なんて冗談はさておき、
今すぐに教育制度をどうこう変えることなんてできないし、だからもちろん、勉強をしなくていいようにはならないし。
そんな現状で、「教育がダメだ」とか「勉強なんてしたくない」とか否定をすることは簡単だけれど、否定からは何も生まれない。
今を否定することは簡単だけれど、そこからは何も生まれない。
だったら、今は今できちんと受け止めて
自分の想いに従って、自分にやれることを精一杯やろうとあたしは思う。
勉強なんてしたくないけれど、しなくてはいけない生徒たちにとって
なにか1つでも意味のある夏期講習を創ろうと思う。
自分と向き合い、夢を思い描き、未来と今を選んでいく
そうやって自分の可能性を拡げ、自信を感じることができるような
夏期講習を創っていこうと思う。
それがあたし自身の可能性を拡げることにもなるからね。
勉強も、仕事も、人間関係も、
否定からは何も生まれないと思う。
受け入れて、そこから何を創っていけるか、考えていけたらいいなと思う。