「わかりあえない」からこそ、愛おしい。
唐突だけど、決めつけられるのが嫌いだ。
よく「あなたは、○○だからね」と言ってくる人に出会う。
彼らはさも「私はあなたのことをわかっている」と言いだけにその台詞を言ってくるのだけれど、
だいたいそういうときはいつも、外れている。
たぶん、彼らは色んな人にそう言っては
外しているんじゃないかと思う。
なんて偉そうに言っているけど、
似たような苦い経験を何度もしてきている。
そのほとんどは「恋愛」でだ。
自分で言うのもなんだけれど、
基本的に、他人に関心があまり持てない性質で、内容のない会話にはめんどくさいから参加しないことがほとんどで、どうしても参加しなければならないときは、聞いている振りだけして適当に流している。
そしてその反動からなのか、人を好きになると、その人のことを知りたくて知りたくてたまらない衝動に駆られてしまう。
それが「恋」というものだと言ってしまえば、それでおしまいなのだけれど、
ほとんどの人がわかっているように、残念ながらその衝動が完全に満たされることはないし、持ち続ければその先には恋の終わりしか待ってない。
そもそも、どんなに気が合ったとしても、どんなに愛し合おうとも、たとえ血が繋がっていようとも
私たちはそれぞれが「1人」の他人である。
どんなに愛し合い、どんなに信頼し合った2人にも、知られたくない姿や知られたくないことの1つや2つあるはずで、そんな2人が上手くやっていけるのは、わかりあっているからではない。
「わかりあえない」ことを
お互いが「1人」の他人であることを
ちゃんと受けとめているからだと、思う。
極論かもしれないけれど、
人が完全にわかりあえることはないし
互いが別々の「1人」であるということを
受けとめることができる人だけが
本当に誰かを愛したり、優しくできるのだと思うし、
グレーの心地よさを、愛せる人でありたいと思う。
人と完全にわかりあえると、思っている人の愛は「おしつけ」
人は完全にはわかりあえないと、わかっている人の愛は「尊重」
そんなことを、ふと考えた。