NO TITLE

本当に大切な人を ちゃんと大切にできる私に。

「自分」旅行。

f:id:marina0821:20170506234249j:plain

 

 

どこにも出かけてないし
ほぼ誰とも会っていないけれど

 

今年のGWは幸せだ。

 

だって
時間を気にせずに
ひたすら自分の思考に浸れてるから。

 

そうやってずっと、自分の頭の中を旅してる。

  

 

f:id:marina0821:20170506234255j:plain

 

「自分」旅行。

 

気になった本を読んで

気になった言葉を書き留めて

その言葉に反応した自分の思考を探っていく。

 

いつもスムーズにいくわけじゃなく

 

時には疲れちゃって

夢の世界に逃げ込んだり、

ふらりと外に出かけたりもできる。

 

 

そして、

 

そんなことを何回か繰り返して

ふとした瞬間に「自分だけの想い」に出逢う。

 

 

 

…その瞬間がたまらなく、幸せ。

 

もちろん、それまでの時間も。

 

f:id:marina0821:20170506234946j:plain

 

そうやって

今日もまた1つ、大切な想いに出逢えた。

 

 

「ゆるしあえる」世界。

f:id:marina0821:20170505204615j:plain

 

暑さはかなり苦手だけれど、
日中暑かった日の、少し肌寒い夜が好きだ。

 

ノスタルジックな雰囲気や
風の心地よさに誘われて、ふらふらしたくなる。

 

 

そんなこんなで、久しぶりのブログ。

 

f:id:marina0821:20170505205743j:plain

 

もうそれがいつからだったのか忘れたけれど
ここ最近ずっと、なんとも言えない虚無感がまとわりついてて
前を向いて歩いていても、気付けば下を向いている
そんなやるせない、消えてしまいたくなるような気分が続いてた。

 

それでも仕事には行かなきゃいけないし
人を「導く」という仕事上
迷ったり、不安がったり、感傷に浸ってる暇なんてない。

 

こんな感情、仕事に支障「しか」ない。

 

だからいつもだったら
そんな感情にすぐ蓋をしてしまうのだけれど
今回はね、なんか蓋をする気になれなくて。

 

 

仕事中は、とにかく目の前の仕事に集中して
1人になった瞬間にひたすら浸って
また仕事に行って、の繰り返し。

 

ずっと自分を不器用だと思ってたけど、
もしかしたら、意外と器用なのかもしれない。笑

 

f:id:marina0821:20170505211010j:plain

 

そんなバカなことを思いながらも
蓋をせずに感じ続けた名前のない感情が
少しずつ、少しずつ、わかるようになってきた。

 

 

少しでも時間があれば

 

 

たくさん、眠ったし、

 

たくさん、本を読んだ。

 

 

そして、たくさん、自分と向き合った。

 

 

そしてようやく見えてきたもの。

 

f:id:marina0821:20170505211712j:plain

 

 

あたしは、「ゆるしあえる」世界を、つくりたい。

 

 

そんな想い。

何かスピリチュアル的で
すごく崇高な感じに聞こえるけど

 

全然そんなことなくて
というより、まずは自分を「ゆるしたい」だけ。 

 

 

f:id:marina0821:20170505212923j:plain

 

これまでたくさん本を読んだり
コーチングや心理学を学んだりして

 

❝人と自分を比べない❞とか

❝自分を愛する❞とか

 

色んな言葉や考え方に出逢ってきて
助けられてきたけど

 

でも結局、最後にはいつも

 

 

「そのためにはどうしたらいいの・・?」

 

 

って、苦しくなった。

 

 

f:id:marina0821:20170505213830j:plain

 

結局、あたしは、いつも


人と比べては「ダメ」
自分を愛せないと「ダメ」

 

そうやって、自分にダメ出しばかりしてた。
それが1番、自分を苦しめてることに気付かずに。

 

 

すぐ人に嫉妬してしまうことも
相手の顔色を窺ってしまうことも
思ってることを上手く伝えられないことも


人と比べてしまうことも
なかなか自分を愛せないことも

 

それも全部、含めて「自分」なのに。

 

それを克服できない自分じゃなくて

 

そんな自分を受け入れられない
無理にポジティブに捉えようとしてしまう


そんな自分を「ゆるす」ことができない自分が

 

なによりも1番、ゆるせなくて、
だから、ずっとしんどかった。

 

f:id:marina0821:20170505214926j:plain

 

なんだ。あたしはずっと
自分を「ゆるして」あげたかったんだ。

 

そんなことに、ようやく気付けて
久しぶりにようやく前を向けた気がした。外に出た気がした。

 

目に映るもの何もかもまぶしくて
世界ってこんなにキレイだったんだ
なんてことを思いながら

出かけたお気に入りのカフェで
マスターにこんなことを聞かれた。

 

「コミュニケーションって、なんだと思いますか?」

 

f:id:marina0821:20170505215812j:plain

 

咄嗟のことで、答えられなかったけれど

ホントはちゃんと頭に浮かんでた。

 

 

「『ゆるしあう』ことだと思います」

 

 

どんな自分も、どんな感情も、
全てが自分の大切な一部なんだって
受け止めて、ゆるすことができたなら

 

今度は同じように
相手のこともちゃんと
受け止めて、ゆるすことができると思う。

 

そしたら
比較とか、批判とか
そんな概念さえ、なくなって


1人1人の個性が輝いて、
共鳴して、新しいものを生み出していく。

 


それがコミュニケーションであり
“人間らしい"世界なんだと、あたしは思う。

 

 

まずは、あたしから、そんな世界を生きてみようと思う。

 

f:id:marina0821:20170412091543j:plain


教育という「ゆるす」ことが許されない世界で、
自分も、人も、とことん「ゆるして」生きていこうと思う。


それについての話は、また今度。

 

「感じる」ことは、めんどくさい。

f:id:marina0821:20170417165328j:plain

 

だいたいどんな本でも
1日か2日で読み切ってしまうのだけれど
この本はなかなか読み進めることができなくて
1週間以上かけて、ようやく読み終えることができた。

 

『あなたは、なぜ、つながれないのか』/高石宏輔

 

読後感としては


「・・・疲れた」というのが1番近い感情な気がする。

 

疲れたと言っても
学問書や専門書ではないので
決して小難しいことが書いてあるわけでもない。

高石さんの細やかな観察力、表現力で
様々な人間の反応が描写されてあるだけ。

 

そう。かなり、おもしろい。
めちゃくちゃおもしろいのだけれど、読めば読むほど疲れる。
そんな不思議な本だった。

 

f:id:marina0821:20170417171314j:plain

 

 

あんなにも疲れたのは
高石さんの描写を通して色々な感情を「感じた」からだと思う。

 

彼の言葉を通して
これまで自分が色んな場面で感じた感情が蘇り
それをただただ感じ続けていた。

 

そして、「感じる」ことは、めんどくさい。

  

自分がそう思っていたこと
そのきっかけ、そう思うようになる前と揺れ動く"感情"

 

ふと、昔のことを思い出していた。

 

f:id:marina0821:20170417174556j:plain

 

きっと、はっきりとした原因なんてなかったんじゃないかな。
仮にあったとしても、今となってはもうどうでもいい。

 

思春期の不安定なやり場のない心の揺れが、
ただあたしに向けられただけ。

ただ、それだけだったんだと思う。

 

けれど、あたしは少しだけ人より敏感で、感じやすかった。

 

だから

 

彼女たちのエネルギーを受け止めることも
傷付いた自分の感情を外に出すこともできなかった。

 

 

そして、内に押し込めた。

 

 

「感じてはいけない」というルールをつくった。

 

 

f:id:marina0821:20170417175326j:plain

 

あの時、あたしにとって

 

「感じる」ことは、苦しいことだったから
「感じる」ことを、してはいけないことにした。

 

そしたら、いつの間にか


「感じる」ことは、めんどくさいことに変わっていた。

 

そうやって、これまでずっと感じないようにしてきて
それでも消えることはなくて
ずっと心の奥底で眠っていた感情。

 

なんで?どうして?
信じたい。でも、信じられない。
怖い。辛い。守って欲しい。
1人になりたくない。


そんな色んな感情が一気に押し寄せてきて、しんどくなった。

 

 

・・・ほら、めんどくさいじゃん。

 

ずっと押さえつけてきた感情たちの逆襲を受けながら
「ほら、感じないほうが楽じゃん」そう思った。

 

f:id:marina0821:20170417173419j:plain

 

でも、それと同時に思い出した。

 

 

「感じる」ことを、やめる前の自分。

 

 

ああ、あの子、無理して笑ってる。

今の言葉、先生傷付いたよね。

あの2人、喧嘩でもしたのかな。

ほらまた、伝わらないからって、伝えることを放棄した。

あ、今この人、嘘ついた。

 

こうしたら、上手く覚えられる気がする。

今、ボール返せば、落ちる気がする。

 

 

 

そうやって、色んなものを「感じてた」

 

日常も、勉強も、スポーツも
あたしは「理解する」よりも「感じる」ことが当たり前で
それで色んなことが上手くいってた。

 

そして何より、そうやって「感じる」ことを楽しんでた。

 

f:id:marina0821:20170417181355j:plain

 

「感じる」ことは、めんどくさい。人より感じやすいと尚更だ。

 

 

 

 

 

 

「感じる」ことは、めんどくさい。

でも、あたしは「感じる」ことの"楽しさ"も知っている。

 

 

感じることも、感じやすいことも
何も恥じることじゃない。

 

だから、もう1度、あの頃のように「感じて」生きてみたい。

 

今は、そう思う。

「人見知り」塾講師

f:id:marina0821:20170412091543j:plain

 

 

 

「人見知りだ」

 

 

 

というと、驚かれることがよくある。

 

もちろん「でしょうね」という反応をしてくれる人もいるが
どうやら、人見知りというよりは「1人が好きなタイプ」に見えるらしい。 

 

まあ、あながち間違いでもないけれど
1人が好きだから、あまり話さないし、つるまないというよりは
慣れるまでは人見知ってることを気付かれたくなくて
殻に閉じこもっているというほうが正しい。

 

 

f:id:marina0821:20170412094908j:plain

 

 

「人見知り」という言葉は、

 

最初からコミュニケーションを放棄しているとか
被害者感出しすぎだとか、相手を威圧してるとか

なんだか最近よくない言葉とされているようだけれど
それでもやっぱり

 

あたしは「人見知り」だ。

 

別にコミュニケーションを放棄しているつもりもないし
被害者感や威圧をするつもりもない。

 

 

ただ、人に慣れるのに少し時間がかかるだけだ。

 

 

だからよく、気分が落ちてるときなんかは特にだけど
この仕事というかそもそも人と関わる仕事に向いてないんじゃないかと思ったりする。

 

 

だって、講師たちのほとんどは人見知りじゃない。

 

大半の講師は、なんの苦労もなく

担当してない生徒にどんどん話しかけていくし
生徒たちと授業以外で和気あいあいとおしゃべりをしている。


だけど、残念ながらあたしは
そういう"コミュ力"というものを持ち合わせていない。

 

だからこそすごく自然に
それをやってのける人を心から尊敬するし、よく嫉妬もする。

 

いくら「自分は自分だ」と思っていても
自分ができないことをやれる人はやっぱり羨ましい。

 

 

f:id:marina0821:20170412095525j:plain

 

 

一時期、そういう"コミュ力"が必要だと思ってチャレンジしてみたものの

疲れるわ、ぎこちないわ、微妙な空気流れるわで
何1ついいことなんてなかった。

 

だから今は、そもそもやろうとすらしてない。

 

 

チャレンジしてみたからこそ分かった。
いわゆる"たわいもない会話"というものを誰彼構わずするのが苦手だ。

 

部活とか教師や友達のグチとか、何が好きで何が嫌いだとか

 

正直、興味がない。
というより、どうやら「悩んでない」人に興味がもてないようで。

 

それが塾講師として、正社員にならない理由の1つでもある。



f:id:marina0821:20170412100152j:plain

 

 

人に興味を持つというより
授業外でも生徒たちと話をして
担当していなくても自分の存在を知ってもらって
話しかけやすい存在であること

 

それが塾講師としての資質の1つだと思うから。

 

あたしにはそれができないというより
できるようになろうと、あまり思えないから
正社員になろうとも、一生この仕事をしようとも思わない。

 

もちろん、もう少しちゃんとした理由だってある。

 

塾講師として全ての生徒に平等に関わるというよりは
悩んだときや困ったときにじっくり話ができる


そんな「いざというときの人」でありたいな、って。

 

f:id:marina0821:20170412101139j:plain

 

全くいい例えというか表現が思い浮かばなくて
「うわー語彙力(´・ω・`)」となってるんだけれど

 

いつでも楽しく話ができて
一緒にいる元気になるような
太陽やヒマワリのような存在も、もちろん大切。

 

その一方で

 

普段は目立たないけれど
何か大きな壁にぶつかったとき
「ねえ、どうしよう…」って、静かに話ができる
月のような、海のような存在。

 

そんな存在でありたいなーと改めて思うのです。

 

 

f:id:marina0821:20170412104136j:plain

 

人に興味がないといより
「悩んでない」人に興味がないとい変わり者で

あんまり騒がしいのが好きじゃなくて

 

慣れるのに少しだけ時間はかかりますが
慣れてしまえばじっくりゆっくり向き合い、受け止めます。

 

あ、元気な姿はよかったねーって、遠くから見守ってます。

 

そんな「人見知り」塾講師も、ありかな、なんて思うのです✿
さあ、人見知りは今日も行く!笑

 

 

自分を責めるということ

f:id:marina0821:20170410221611j:plain

 

ここ数年、ずっと感じていたことがある。
あたしは

 

 

「自分を責めることが得意だ」

 

 

この性格のせいで苦しいんだ。
ずっとそう思ってなんとか治そうとしてきた。

 

自分を責めないように、責めないように。

 

でも自分を責めてる自分に気付いては
また、自分を責めてきた。

 

なんという負のループ・・・もしや、あたしはドMなのか。

 

f:id:marina0821:20170410222919j:plain

 

確かになよなよした人よりは
ちょっと意地悪なくらいの人のほうが好きだけれど
でも非常識すぎるほどの俺様はムカつくというか引いてしまう。

なんて、好みのタイプはさておいて
どれだけ自分を責めるかというと

 

 

例えば寝坊すれば、

まずは起きれなかった自分を責め
早く寝なかったことや
昨日のうちに今日やることをやらなかったことを責める。

 

1日何もしたくなくてボーっと過ごせば
やるべきことと向き合わなかった自分を責め
こんなんだから上手くいかないなんだと過去の失敗を引っ張り出す。

 

酷い時にはその矛先が他人に向くこともある。

 

授業をして
生徒たちの反応が悪ければ
まずは自分の力不足や準備不足を責め
そして「受験生になれてない」と生徒たちを責める。

 

そして、そんな自分に気付き、また責める・・・。

 

 

ここまでくると、救いようがないというか
なんかちょっと笑えてさえくる。

 

 

f:id:marina0821:20170410223702j:plain

 

Facebookにも少し書いたのだけれど
こうして発信を再開してみて


自分の想いを表現できる場があること
そこに反応してくれる人がいることに
とってもとっても幸せを感じるのだけれど

 

それと同時に「嫌だな」と感じることもある。

 

それは投稿に関係のないコメントだったり
よくわからない大量のいいねだったり。

 

公に発信している以上
仕方ないことだとわかってはいるのだけれど
前に発信していたときもこの対処にだいぶ頭を悩ませた。

 

 

 

自分の想いを綴った投稿に
関係のないコメントをされるのは
やっぱりいい気はしないし

よくわからない男性からのいいねは
正直、気持ち悪い。(もちろん、そうじゃない男性もいるけれど)

 

なんとなくだけれど
コメントやいいねだけで
あたしという「人間」に興味を持ってくれているのか

それとも「女」としてのあたしに興味をもっているのかわかってしまう。

 

あたしとはSNSを使っている目的が違うから
後者の場合は、やっぱり気持ち悪いと思ってしまう。

 

 

そこまで感じているのだから
ブロックするなり、コメント削除するなり、
友人限定の公開にするなり潔くしてしまえばいいのに

 

そこでまた、あたしは自分を責めてしまう。

 

色んな目的の人がいて当たり前。
それをあたしの都合で拒絶していいのだろうか。
それはわがままなんじゃないだろうか。

 

 

・・・なんて。どこまでいい人なんだ。あたし。

 

 

f:id:marina0821:20170410224958j:plain

 

なんてノリツッコミをしながら
ぐるぐる、もやもや、自分を責めていて

 

ふと、気が付いた。

 

 

「自分を責める」=「自分の感じたことを否定している」

 

 

そのサインなんだと。

自分を責めること自体をなくそうと
人の目や正解なんて気にせず
自分が心地よい選択をし続ければいい
それができる自分になればいいと思ってたけれど

そんなに悪者扱いしなくてもいいんじゃないかと。

 

 

自分を責めているときは


自分がダメなときでもなく
世間的に間違っているときでもなく

 

ただ単に自分のなかのもう1人の自分が

 

「ちょっとちょっと、嘘ついているよ」

 

 

そうやって教えてくれているときだ。

自分の最初に感じたことを
なんらかの理由で押し込めて
自分がしたくない選択をしてしまっているときだ。

 

 

「自分を責めることが得意だ」

 

 

それはつまり

 

 

「自分に嘘をついていることに気付くことが得意だ」ということ。

 

 

 

なんだ、立派な長所じゃないか。
自分を責めないようにしようとすると
何か無理してる気がして、それはそれで実はしんどかったので
このことに気付いてホッとした。

 

 

f:id:marina0821:20170410230344j:plain

 

なので、とりあえずデスク正面の壁にこんなものを貼っておいた。

 

長年、短所だと思っていたことも
見方を変えれば実は悪くないのかもしれない。

 

そんな風に思えて、また少し自分も悪くないと思えた。

「星野 源」という人

f:id:marina0821:20170409154336j:plain

 

特に目的もなく、本屋に行くのが好きなので
その日もふらっと立ち寄って、たまたま目に留まった

 

『いのちの車窓から』

 

「逃げ恥」「恋ダンス」で、彼が有名なのは知ってたけど
なぜか昔から「みんなと同じもの」いわゆる流行に乗るのが嫌で

本当はちょっと気になるなー、なんて思ってても
ブーム絶頂期には決して手を出さない"あまのじゃく"なあたし。

 

 

でも、買ってしまった。

 

 

"自分自身"への優しい言葉であふれていた

f:id:marina0821:20170409160049j:plain

 

なんとなく読み始めて、あっという間に
彼の言葉の、彼の感性の虜になった。

 

昔から、アーティストな感性を持った人たちが好きで
堂本剛さん、中島美嘉さん、有村竜太朗さんや
最近で言えば、ぼくのりりっくのぼうようみとか
そんな独特な世界観を表現している人たちが好きだ。

 

彼らのそんな世界観は、少しダークで、
奇抜と揶揄されることもあったけど
それでも彼らの紡ぐ言葉が好きで、真似してよく詩を書いたりもした。

 

星野源さんの世界観にも
どちらかと言えば彼らのようなダークなものを感じる。

 

でも、圧倒的に違いを感じたのは彼は「そんな自分を楽しんでいる」

 

彼の言葉は人への優しさも感じるのだけれど
なにより、そんな"自分自身"への優しさに溢れていた。

 

人と違うことは、恥ずかしいことじゃない

f:id:marina0821:20170409161921j:plain

 

なんて言葉は今や色んなところで見るようになったし
あたし自身もよく使うようになった。

けれど、やっぱり違うということは目立つし、怖いのが本音。

 

だからいつの間にか
誰かと同じになろうとしてしまう。


でも、なれるわけなくて、そんな何者にもなれない自分が情けなくなったりする。

 

あたしの頭の中は忙しいし、
基本的にどうにかして自分を責めたいらしい。


そして、ポジティブでハッピーというよりは、クールでダークだ。

 

こうしてSNSやブログで発信するようになって
少しずつ人と違うことは恥ずかしいことではないって思えるようになったけれど
いつの間にかポジティブでハッピーでないといけないと思うようになってた。

 

だって、みんなキラキラしてるんだもの。

 

ダークでクールも悪くない

f:id:marina0821:20170409163123j:plain

 

ついつい自分の話になってしまったけれど
星野さんの文章からはダークやクールさなんて
一見、感じられないかもしれない。

 

でも、よく読んでみると結構、ダークだ。

 

なのにそれを感じさせないのは
その感性を無理やりポジティブに変換しているわけではなく

 

彼がそんな自分の感性を心から楽しんでいるからなのかなと、この本を読んで思った。

 

ダークでクールで、人も自分も好きな人

f:id:marina0821:20170409164149j:plain

 

あたしが昔から好きだった
アーティスティックな人たちは
ダークでクールな自分の感性を受け入れてはいるけれど
決して、楽しんでいるようには思えなかった。

(今はそうでもない人もいるけれど)

どちらかといえば、
そんな人と違う自分の感性を悲嘆しながら、もがきながら、
表現することでなんとか自分を救おうとしていた。

 

あたしも何度もそんな生き方を試みて、何度も挫折した。

 

自分の感じたことを感じたままに表現して
SNSやブログの反応が悪かったり、批判されたりすると、
ああ、やっぱりポジティブでハッピーじゃないとダメなんだと思い込んだ。

 

ポジティブでハッピーに
人も自分も大好きになって生きるか

ダークでクールな自分を受け入れ
人と距離を置いて生きる覚悟を持つか

 

その2択しかないと思ってた。

 

 

ダークでクールで、人も自分も好き。

 

 

そんな新しい生き方をこの本は、教えてくれた気がする。
そして、そんな生き方があたしには合っているような気がする。

「NO TITLE」という始まり

f:id:marina0821:20170408135346j:plain

 

今年もようやく無事に大学受験が終わったと、ひと息つく間もなく
講師不足のため、久しぶりに朝から夜までずっと授業という生活を
約3週間続けて、昨日ようやくそんな生活が終わった。

 

体力的にも決して楽ではなかったけど
それ以上に、頭とか心とか、胃とかで育っていく
「違和感」のほうがしんどかった。

  

「違う」

  

確かに自分がそこにいて
確かに自分が喋っているんだけれど
自分じゃない感覚。

 

 

この3週間、あたしの口から出ていた言葉は
あたしという1人の人間が伝えたいことなんかじゃなくて
当たり障りのない、いかにも塾講師らしいこと。

 

自分に興味を持ってくれない生徒たちの
「勉強」という「不安」を揺さぶる言葉ばかり。

 

かれこれもう約10年の講師生活。
生徒たちを緊張させることぐらい朝飯前になってしまった。

 

 

でもいつも、そんな風にスラスラと喋る自分を
もう1人の自分がただ黙って見つめている。喋りながらそんな感覚になる。

 

 

 「なに、やってんの?」「また、逃げるんだ」

 

 

そう言いたげな眼差しで。

 

 

 

嫌われないように。

間違わないように。

傷付かないように。

 

  

 

そんな自分に気付き、
他の先生と比べて、自分をひたすら責め続けた。
何1つ 自分を認めることなく、自分で自分をボロボロにしていった。

 

誰かに何かを言われたわけでも、批判されたわけでもないのに
勝手に自分で自分を批判する。長年の癖も困ったもんだ。

 

たぶん、こうやって人は鬱になっていくのかもしれない。

 

メンタル的には結構やられているんだけど
それさえもどこか人ごとで

 

 

「さて、どうするかな」

 

 

そんな風に考えられるのが
あたしの強みなんだろうなと思う。
なんて、のんきに考えてる自分もいる。 

 

とはいえ、
自分を責め続ける生き方はしんどいことに変わりはないし
別にあたしはドMなわけでもないから、こんな生き方はもう勘弁なのだ。

  

 

嫌われない

間違わない

傷付かない

  

 

そんな風に生きれたら幸せだとずっと思っていた。
でも、そうやって生きようとしたこの3週間、幸せどころか地獄だった。

  

 この3週間を振り返ったら、「楽しむ」とか「笑う」ってこと忘れてた。

  

あたしは、嫌われない、間違わない、傷付かない生き方より
「楽しんで、笑って」生きてたい。

 

 

 

じゃあ、あたしの好きなこと、楽しいことって何だろう?

  

ブログ、音楽、オシャレ、写真、読書、教えること、人の想いを整理すること

  

そんな好きなことに共通すること。

 

  

"感じたことを表現すること"

   

そして何より、自分の"感じたこと"を認めること。

 

 

そうやって生きていけたら、もう最高だろうなと。
この苦しかった3週間が気付かせてくれた。 

 

 

この3週間だけじゃない。
アメブロにも、自分の発信内容にも
実のところ、結構前から違和感を覚えていた。

 

でも「まあ、気のせいか」そうやって、ずっと誤魔化してきた。

  

それはきっと今まで
嫌われない、間違わない、傷付かない
そんな基準がずっとあたしの中にあって
自分の感じたことを認めることができてなかったんだと思う。

 

 

だから、これからは、
自分の感じたことを大切に、感じたままに綴っていこうと思う。

 

タイトルは思いつかないから「NO TITLE」で。
そんな新たな始まり。

 

感じたことを認めて、表現することが、1番幸せだと気付いたからね。