時間は平等に流れていく。
4年前、担当していた生徒が久々に顔を出しに来た。
顔を出しに来たといっても、妹の迎えに来ただけなのだけれど
彼女と会ったのは本当に久しぶりで
受験シーズン、制服の下からも上からも
雪だるまのように着込み真冬の帰り道を自転車で帰っていた彼女も
今では車を運転し、妹を迎えに来るようになったんだなと、時の流れを感じた。
社会人、1年目。
まだ化粧に慣れていないのか、たまたまなのかわからないけれど
少し白浮きした顔にあの頃と変わらない笑顔で
「もう既に辞めたい」と、笑う。
そういえば、高校生の頃から責任感の強い子だった。
仕事にも慣れ、背負っているものの重さを痛感し始め、
責任感の強い彼女にとっては今が1番しんどい時期なのかもしれない。
次の授業までの少しの間だったけれど
たわいもない話をして、授業に向かった。
もう4年も経ったのかと、思うと同時に
彼女の間で、時間が平等に流れていたことに少し不思議な感覚を覚えた。
"時間は平等に流れていく"
そんなことは、当たり前なのだけれど
会わなかった数年間、彼女との時間は止まっていた。
あの日、話をするまで、あたしの中で彼女は高校生だった。
けれど、
完全防寒で自転車に乗っていた彼女は、今は暖房の効いた車を運転している。
些細なことでよく笑っていた彼女が、今は仕事を辞めたいと笑う。
そしてあたしも、
あの頃は見ることができなかった彼女の目をまっすぐ見ながら話を聴いていた。
会うまでは、こうして話をするまでは、
確かに止まっていたはずの時間が動き出した。
それは嬉しく、そして、少し寂しく感じる瞬間でもあった。
"時間は平等に流れていく"
今この瞬間も、
あたしの知らないところで、
あの人は大人になり、あの人は傷付き、あの人は誰かを愛している。
誰もがそんな時間の流れを受け入れ、また明日も1日を生きていく。
なんだかそんな日々が愛おしく、そして少し寂しい。
まじで僕に、愛される気あんの?
ここ最近、毎日聴いている曲がある。
あいみょんという少しふざけているような名前のアーティストの『愛を伝えたいんだとか』という曲。
音楽アプリでたまたま聞いて以来、何度も何度もリピートしている。
タイトルはその曲の歌詞の一部なのだけれど、
この一言でこの曲が好きになったといってもいいほど、やられた。
「愛してる」や「愛されたい」という言葉は、
魅力的な言葉だとは思うけれど、特に歌詞の中では正直、聞き飽きていた。あまりに大量に使われすぎていて、お腹いっぱいだった。
だからこそ、そんな中でのこの言葉は強烈だったんだと思う。
この短いフレーズに
僕は君を愛するという「覚悟」とほんの少しの「狂気」
それを感じ、たまらなく魅了された。
出勤は必ず、この曲を聴きながらが最近のお気に入り。
これから受験生たちに英語の授業をしていくというのには、
あまりにも不釣り合いすぎるこの曲。
けれど、その不釣り合いさがなんだか背徳を感じさせて、むしろやる気がみなぎってくるあたしは、相当の変わり者なんだと思う。
学校の先生にしても、あたしたちのような塾講師にしても、
人を支援する仕事って、正解がない世界だ。
そしてそんな仕事をわざわざ選び、毎日ああでもないこうでもないと悩みながら、しかもそれを好き好んでやっているあたし達は、間違いなくドMだなんて話を少し前に同じような仕事をしている先輩とした。
対人に関しては、ドSなほうだとは思うし、よくそう言われるのだけれど、そうやって考えると自分に対しては、間違いなくドMだよな、なんて最近よく思う。
そんな仕事に関してドMなあたしは、人前、特に大人数の前で話すのが苦手だ。
…そして、それを仕事にしている。
こうして文章を書くのは好きだけれど、どうも数字や論理というものとどうも相性が悪く、人前で話をするとなると、すぐに自分が何を言っているのかわからなくなる。
そして何より、自分に向けられた多数の眼が怖い。
そこからあまりに多数の感情が伝わってきて、さらにそれが自分の感情と入り混じって、人数が多ければ多いほど、訳がわからなくなる。
つまり、人の眼を見るのが苦手なのだ。
それでは伝えたいことも伝わらないと、頭ではわかっているのだけれど、90分という決められた時間の中で、その部屋にいる唯一のスピーカーが何も話せなくなることほど恐ろしいことはないと、いつの間にか最もらしい言い訳をでっちあげ、生徒たちの少し上を見ながら話をするのが当たり前になってきた。
その癖、全く伝わらないといつも嘆いていた。
ところが、いつものように生徒たちの少し上に目線を泳がせながら、受験生としての自覚を持つようにと、話をしていたある日。
ふと、あのフレーズが頭をよぎった。
「まじで僕に、愛される気あんの?」
授業とも、受験とも、全くなにも関係のない、不釣り合いなこのフレーズ。
けれど、そのときようやく全身で認めることができた。
この眼を受けとめる「覚悟」が足りなかったのだと。
不安そうな眼、眠そうな眼、少し敵意の込められた眼、信頼をおびた眼…
いま目の前にあるこの多数の眼を正面から、受けとめる覚悟が今のあたしには必要なのだと。
そこにはなんの根拠もないけれど、その瞬間からまっすぐ1人1人の眼を見て話す自分がいた。
それは、
彼らの心に言葉を届けるのに、なくてはならない覚悟。
今よりも自分を好きになるために、必要な覚悟。
生徒1人1人を信じ、受けとめ、愛する覚悟。
ずっと何か足りないと思っていたものは、これだったんだ。
もう何の迷いも、恐れも、ない。
だからいつか、たくさんの生徒たちを目の前にして、
こう言える気がしてる。
「まじで僕に、愛される気あんの?」
「わかりあえない」からこそ、愛おしい。
唐突だけど、決めつけられるのが嫌いだ。
よく「あなたは、○○だからね」と言ってくる人に出会う。
彼らはさも「私はあなたのことをわかっている」と言いだけにその台詞を言ってくるのだけれど、
だいたいそういうときはいつも、外れている。
たぶん、彼らは色んな人にそう言っては
外しているんじゃないかと思う。
なんて偉そうに言っているけど、
似たような苦い経験を何度もしてきている。
そのほとんどは「恋愛」でだ。
自分で言うのもなんだけれど、
基本的に、他人に関心があまり持てない性質で、内容のない会話にはめんどくさいから参加しないことがほとんどで、どうしても参加しなければならないときは、聞いている振りだけして適当に流している。
そしてその反動からなのか、人を好きになると、その人のことを知りたくて知りたくてたまらない衝動に駆られてしまう。
それが「恋」というものだと言ってしまえば、それでおしまいなのだけれど、
ほとんどの人がわかっているように、残念ながらその衝動が完全に満たされることはないし、持ち続ければその先には恋の終わりしか待ってない。
そもそも、どんなに気が合ったとしても、どんなに愛し合おうとも、たとえ血が繋がっていようとも
私たちはそれぞれが「1人」の他人である。
どんなに愛し合い、どんなに信頼し合った2人にも、知られたくない姿や知られたくないことの1つや2つあるはずで、そんな2人が上手くやっていけるのは、わかりあっているからではない。
「わかりあえない」ことを
お互いが「1人」の他人であることを
ちゃんと受けとめているからだと、思う。
極論かもしれないけれど、
人が完全にわかりあえることはないし
互いが別々の「1人」であるということを
受けとめることができる人だけが
本当に誰かを愛したり、優しくできるのだと思うし、
グレーの心地よさを、愛せる人でありたいと思う。
人と完全にわかりあえると、思っている人の愛は「おしつけ」
人は完全にはわかりあえないと、わかっている人の愛は「尊重」
そんなことを、ふと考えた。
矛盾だらけの、愛。
四六時中、誰かのことを想う人生も素敵だと思う。
でも、
あたしはそんな生き方は選びたいとは思わない。
だから恋をするといつも
振り回されるより、振り回す人になりたいと思う。
でも、
そんなことを思っている時点でもう既に、振り回されていて、
自分がめんどくさい女だということに気付かされる。
でも、
そんなあたしのことを「わがままで、自由な女」と
言ってくる人たちもいる。
でも、それはいつも決まって、全く興味を持てない人ばかりだ。
我ながら、矛盾だらけの生き物だ。
そんなことを考えながら
既読のつかないLINEを気にしているあたしがいる。
どうやらまだ、愛しい人を振り回す女にはなれないらしい。
さよなら、9月。おかえり、10月。
9月が終わった。
たったそれだけのことなのに
自分が何かをしたわけでもなく、いつの間にか時が経って
9月という月が終わっただけなのに
なんだかとても、すがすがしい気分なのは、それだけ9月に大きなものを捨ててきたということ。
たった1つ何かが崩れただけなのに
どうしてああも簡単に、日常の歯車は狂い始めるのだろう。
恋愛がうまくいかないときは、仕事もうまくいかない。
仕事がうまくいかないときは、友人ともうまくいかない。
友人とうまくいかないときは、見ず知らずの人とさえうまくいかない。
そうやって全てが、狂い始めていった。というより、
全てを狂わせていってしまった。と言ったほうが正しいのかもしれない。
この間、「好き」とは「根拠はないが、自信を持って、たとえ間違ってもいいから、それを選びたい」という覚悟をもつことなのだ、と書かれてある本に出逢った。
確かになぜかこの9月は、恋愛にしても、仕事にしても、こうやって言葉にすることにしても、「好きなものを好きだ」と認めなければいけない時が度々訪れた。
けれど、「好きなものを好き」と言ってしまうことで
1人になってしまうような気がして、そのことになぜかひどく怯えてしまって「好きなものを好き」だと、ずっと言えないでいた。
残念ながら、これは本当に大切で心から好きだから、好きだと言えないんなんて、そんな綺麗な話じゃない。
ただ、好きだと言ってしまうことで、その相手から拒否されたり、そんなものが好きなのかと好奇の目で見られたりするのが、ただただ怖かったというどうしようもないくらい情けない話だ。
昔、ひっそりと書いていたポエムを同級生に笑われ、たまらなく傷付いたときのような想いをもう2度としたくないというそんな情けない話。
そんな昔の話をふと思い出して、気付いたことがある。
笑われるなんて微塵も思わずに、夜な夜なノートにポエムを書いていたあの頃は、1人の怖さなんてまだ知らなかったし、だからこそ、1人に幸福を感じていた。
好きなものは好き。
嫌いなものは嫌い。
と、はっきり言葉にする覚悟を持っていた。
歳を重ねて、1人の怖さを知ってしまってからは、
1人に怯え、自分以外の何かにすがることで、その怖さを誤魔化してきた。
自分が好きな人が自分のことを好きかどうかとか、自分の言葉にどれだけいいねが貰えるかとか、そんなことにばかり頭を悩ませてきた。
だから、「好きなものを好き」と言うのが怖かった。
あの頃に、戻ろう。
相手の気持ちなんて気にもせず、ただ好きという想いを募らせていた、あの頃の自分に。
誰かに評価されることなど気にもせず、ただ自分の想いを言葉にしていた、あの頃の自分に。
そうやって1人で幸せを感じながら、1人という絶望を飼いならしていた自分に。
9月。それは、ずっと1人に怯えていた自分。
10月。それは、1人で幸福に絶望していた、あの頃の自分。
さよなら、9月。おかえり、10月。
エッセイなんて自分には書けないと思っていたけれど
やっぱり書いてみたいと思ったから、これから書いていこうと思う。
たぶん、それが1番好きな形だから。
理想の未来を選べるかどうかわからないけれど、最悪の未来は選べる。
9月も半ばを過ぎ、
この季節が好きなあたしは
秋の気配を感じる度になんだか幸せな気分になり、
そして、そんな穏やかな自分に気付き
自然とほころんでしまっている顔は、きっとかなりのまぬけな顔だ。
とはいえ、この2週間はそれなりに忙しく
あっという間に時間が経ったような気がする。
仕事でも、プライベートでも、
色々と試されることの多い2週間だった。
だけど、後悔はないと言いきれる選択ができた2週間だった。
昔のあたしなら
確実にできてなかっただろう選択。
もしかしたらそれも
顔がほころびやすくなった理由の1つかもしれない。
とはいえ、この先もまだ
大きな選択を迫られているのだけれど
それでも「大丈夫」だと思える。
なぜなら、自分が何を大切にすべきなのかようやくわかったから。
それは「自分が好きだと思える自分かどうか」ということ。
仕事にしろ、プライベートにしろ、
何か選択をしなければいけなくなったとき
そこには、必ず"相手"が存在している。
もし本当に自分1人にしか関係のないことなら
そもそも迷ったりしない。
だから迷うときって
というか人生って
きっと1人じゃどうしようもできないことの連続で
だから毎日、悩んだり、迷ったりしてきたし、
そうやって立ち止まる度
いつもどこかに正解を求め、未来や結果を
コントロールしようと必死になってきたけれど
そこには正解も、不正解もないし、
コントロールなんてできないこと
頭ではずっとわかっていた。
ただ、怖かっただけなんだよね。
自分で決めてしまうと、全て自分のせいになるから。
だから、誰かの何かのせいにしておきたかった。
そうすれば、たとえ悪い結果でも耐えられると思ったから。
でも、違った。
悪い結果になるときは、なるし
ならないときは、ならない。
そして当たり前だけど
悪い結果になれば、どんなに人のせいにしようとも、苦しい。
たぶんね、あたしたちがどんなに悩んで、迷おうと
宇宙とか神様とかよくわかんないけど、
あたしたちに人間にはわかんない次元で
未来は、結果は、もう決まってるんじゃないかと思う。
だから
どうせ決まっているのなら
「自分が好きだと思える自分でありたい」
そう思った。
そうやって選んできたこの2週間。
よくない結果や未来もあったけれど
それでも、少なくとも最悪な結末にはならなかった。
そのときに思ったんだよね。
これまでも未来は決まっていたかもしれないけど
最悪な結末を選んでたのは、自分だったんじゃないかって。
自分で勝手に最悪のシナリオを書いて、
悲劇のヒロインになって、その通りに行動してきたからだって。
正直、自分が好きだと思える自分を選べば
必ずいい未来が訪れるなんてことは言えないけど
少なくとも
自分が思う最悪な結末には、ならない。
だってその結末は
あなたが自分の未来を選ぶことから逃げ
誰かのせいにすることを選んだその結果だから。
自分1人じゃどうしようもないことの連続の毎日
未来に怯え、そこから目を背けるか
今、この瞬間を自分が好きだと思える自分でいるか
少なくとも
あたしは後者であり続けたいと思う。
ただ、自分を愛したいと思った。
何から、書けばいいのだろう。
こうやってパソコンに向き合うことも
自分と向き合い、想いを言葉にしていくことも
それをしていたのが随分と遠い昔のことのように思えて
少し、戸惑ってしまう。
今の職場で、塾講師として働き始めて4度目の夏。
そこそこ自分のスタイルを確立して働けるようになってきたとはいえ
この7・8月は、塾にとって、繁忙期となる講習期間。
おまけに、私は暑さにめっぽう弱い・・・
そんな私には、しんどくない夏など
もしかしたらそもそも存在しないのかもしれない。
それでも、この夏のしんどさは異常だった。
間違いなく私はそこにいたし、毎日授業をしていた。
話しすぎて、声が出なくなるほど、毎日毎日、授業をしていた。
けれど、
授業をしているのも自分。話をしているのも自分。
なのに。
そんな自分が全く知らない人のように思えて
授業をしながら、今、本当に自分は生きているのだろうか、なんてことを考えていたような気がする。
(正直、記憶がほとんどなくて、あまり詳しくは思い出せない)
確かに今年は、今までと比べると担当する学年も増えて
メインである高3の講座数も増えていた。
それでも、寝る時間や休む時間が0だったわけじゃない。
けれど、どんなに眠っても、
目が覚める度、身体は重くなる一方だった。
多忙な毎日を乗り切るのに精一杯で、
私は、完全に自分を見失ってしまってた。
そうやって心のバランスを崩し、身体のバランスも崩れていった。
人間って、本当よくできていると思う。
"壊れる"
久々に、そんな心と身体の悲鳴を聞いた気がする。
程度の差はあれど、今までにも何度かこんな悲鳴を聞いたことがある。
おそらくそれを初めて聞いたのは、中3の秋ごろ。
気付けば、クラスの女子全員が敵になっていたあのとき。
そして、1番最近で聞いたのは、
この職場に来て2年目の、やっぱり夏だった。
十何連勤が当たり前で、上司との関係も最悪で、本気で辞めることを考えていたときだ。
そうやってもう1人の私が、私に訴えかけてくれていた。
"そろそろ、だよ"
間違いないくそれは心と身体からの悲鳴なのだけれど、
いつもそうやって、壊れてしまうと
その度に、新しい自分を創るエネルギーがどこからともなく湧いてくる。
壊れないことに越したことはないのだけれど、
このしんどさは、私にとって、次のステージに行く合図みたいなものなのだ。
そうやって、見えてきた次のステージ。
静かに、けれど確かに体中に感じるエネルギー。
『自分で自分を、愛せる自分になる』
エネルギーだとか、もう1人の自分の声だと、自分を愛するとか
いかにもスピリチュアル的なことを語っているけれど
正直、その辺の知識はほとんどなくて、
この感覚を表現するのにいい言葉が見当たらなくて、借りただけだったりする。
もう少し大衆向けの表現をするなら、
これまで踏み出したかったけれど、踏み出せなかった道へ
進んでいく覚悟が決まった。とでも言うのだろうか。
私は物心ついたころから自分に自信がなくて、ずっと自分を愛したいと思っていたし、
普通とか常識に魅力を感じなくて、やってみたいこともたくさんあった。
実際に色々とやってみたけれど、いつもどこか中途半端だった。
やっぱり・・・怖かったから。
オンリーワンになりたいのなら、周りから浮く勇気が必要。
— Malina (@marina1988s) 2017年9月3日
当たり前なんだけど、大切なことだよなぁ。
そう、周りから浮く勇気がなかった。
自分が進みたい道に気付いていながら、人と違う道へ進むのが怖かった。
だから中途半端に自分を主張して、誰かを批判することで、
自分は間違っていないと思い込みたかった。
いや、思い込ませてきた。
そのツケが回ってきたのが、この夏だったんだろう。
自分を誤魔化し続けて、現実から目を背け続けて、
嘘で自分を塗り固めて、とうとう耐えきれなくなって、壊れてしまった。
― だからまた、ここから始めるの。
自分の進みたい道。
自分の信じたい想い。
それを貫く覚悟が、ようやくできた。
自分の人生のシナリオは、自分で書いていく。
そうやって、私は『自分の愛せる自分』になっていく。
私は、私を愛したい。
だから、そのためにやれることは全てやる。
たとえそれが報われなくても、後悔なんて残らない。
そう言えるように、今日からまた生きていく。
壊して、創って、その繰返し。
Restart.