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本当に大切な人を ちゃんと大切にできる私に。

さよなら、9月。おかえり、10月。

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9月が終わった。

たったそれだけのことなのに
自分が何かをしたわけでもなく、いつの間にか時が経って
9月という月が終わっただけなのに

なんだかとても、すがすがしい気分なのは、それだけ9月に大きなものを捨ててきたということ。

 

たった1つ何かが崩れただけなのに
どうしてああも簡単に、日常の歯車は狂い始めるのだろう。

恋愛がうまくいかないときは、仕事もうまくいかない。
仕事がうまくいかないときは、友人ともうまくいかない。
友人とうまくいかないときは、見ず知らずの人とさえうまくいかない。


そうやって全てが、狂い始めていった。というより、
全てを狂わせていってしまった。と言ったほうが正しいのかもしれない。

 

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この間、「好き」とは「根拠はないが、自信を持って、たとえ間違ってもいいから、それを選びたい」という覚悟をもつことなのだ、と書かれてある本に出逢った。


確かになぜかこの9月は、恋愛にしても、仕事にしても、こうやって言葉にすることにしても、「好きなものを好きだ」と認めなければいけない時が度々訪れた。

けれど、「好きなものを好き」と言ってしまうことで

1人になってしまうような気がして、そのことになぜかひどく怯えてしまって「好きなものを好き」だと、ずっと言えないでいた。


残念ながら、これは本当に大切で心から好きだから、好きだと言えないんなんて、そんな綺麗な話じゃない。

ただ、好きだと言ってしまうことで、その相手から拒否されたり、そんなものが好きなのかと好奇の目で見られたりするのが、ただただ怖かったというどうしようもないくらい情けない話だ。

昔、ひっそりと書いていたポエムを同級生に笑われ、たまらなく傷付いたときのような想いをもう2度としたくないというそんな情けない話。
 

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そんな昔の話をふと思い出して、気付いたことがある。

笑われるなんて微塵も思わずに、夜な夜なノートにポエムを書いていたあの頃は、1人の怖さなんてまだ知らなかったし、だからこそ、1人に幸福を感じていた。


好きなものは好き。
嫌いなものは嫌い。


と、はっきり言葉にする覚悟を持っていた。 


歳を重ねて、1人の怖さを知ってしまってからは、
1人に怯え、自分以外の何かにすがることで、その怖さを誤魔化してきた。

自分が好きな人が自分のことを好きかどうかとか、自分の言葉にどれだけいいねが貰えるかとか、そんなことにばかり頭を悩ませてきた。

だから、「好きなものを好き」と言うのが怖かった。

 

あの頃に、戻ろう。

相手の気持ちなんて気にもせず、ただ好きという想いを募らせていた、あの頃の自分に。
誰かに評価されることなど気にもせず、ただ自分の想いを言葉にしていた、あの頃の自分に。

そうやって1人で幸せを感じながら、1人という絶望を飼いならしていた自分に。

 

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9月。それは、ずっと1人に怯えていた自分。

 

10月。それは、1人で幸福に絶望していた、あの頃の自分。

 

さよなら、9月。おかえり、10月。

 

エッセイなんて自分には書けないと思っていたけれど
やっぱり書いてみたいと思ったから、これから書いていこうと思う。

たぶん、それが1番好きな形だから。