鳴らない、携帯。
「また今日も来ない…」
鳴らない君からのLINEの通知に、というよりも
来ないとわかっていながら期待することをやめられない自分自身に
今日もまた落胆している。
「もう、どうでもいいってわけ?」
そうやって何度も何度も期待を裏切られ続ければ
自然と不安や怒りが顔を出し始める。
そもそもその期待すら、
約束したわけではなく、自分が勝手にしているものなのに。
もうそこには、遠距離でも大丈夫。
なんて言っていたあの頃の私はいない。
とにかく私はイライラしていた。
自分からは全く連絡をくれない彼にも
Instagramに溢れる見知らぬ幸せそうなカップルにも
Facebookでキラキラしたオーラを放つSNS起業家たちにも
テンションの高いクラスメイト達が毎日飽きもせず
騒いでいた高校の教室のような職場にも。
とにかく、全てが煩わしくて仕方なかった。
そんなときはできるだけ1人でいる時間を多くしたいのに
そういうときに限って仕事で休日出勤や早出が続く。
イライラを溜め込みながらやるべき仕事を片付けても
相変わらず私の携帯の画面には彼からの連絡通知はないし、
インスタのカップルたちは幸せそうだし、
フェイスブックにはキラキラした自撮りが溢れている。
もう、何ひとつ上手くいってないような気がした。
ようやく1人になれても、彼とのトーク画面に
何度も「さよなら」の文字を、書いては消してを繰り返していた。
辛いのを全て彼のせいにして、楽になりたかった。
不安も苛立ちも、全部自分がつくりだしたものなのに。
もちろん、寂しさはあった。
けど、そんなことは遠距離を、というより彼を選んだ時からわかっていたこと。
それに毎日、連絡が欲しいわけじゃない。
たとえ、どんなに好きな人であろうと、私は1人の時間が必要だし、
なんだかんだ仕事も忙しいし、やりたいことだってある。
会えないことにも、そこまでストレスを感じているわけでもない。
彼も似たような人だからそんなことはありえないけれど
内容のない連絡が毎日来るのは、正直うっとおしい。
それなのに、私が彼からの連絡を求めていたのは、
ただ、「必要とされているのか」確かめたかったから。
なにか大きなきっけがあるわけでもなく、
昔から私は「自分は必要なんだろうか」とすぐ考えてしまうところがある。
それはきっと私が
人と同じことをするのが嫌いで、
代わりの効く人間になりたくないという想いが強い癖に
人と違うことで指をさされることを恐れている
矛盾だらけの性格だからなのだと思う。
「一人」は好きだけれど、「独り」は嫌いだ。
物理的な孤独は、むしろ好むけれど、
精神的な孤独には、耐えられない。
そんな、めんどくさい性格。
だから自分から人と距離をとっておきながら
ふと、「自分は必要なんだろうか」と考え始めてしまう。
そうやって考え始めてしまうきっかけに共通点はないけれど
それが何のサインなのかはわかるようになった。
「私自身が自分を信じられてない」
そのサインだ。
もともと1人が好きで
物理的な居場所をさほど必要としない私は、
きちんと自分さえ自分を信じることができていれば
他人からの承認なんて気にも留めず、
躊躇なく、前例のない道を突き進んでいける。
けれど何かの拍子に、自分を信じられなくなると急に、
他人からの承認を求めてしまう。
そして、ひどいときはそれをこじらせ、ドツボにはまっていく。
彼からの連絡を強く求めていたのは、まさしく、
その承認欲求の表れだったのだろう。
それに気付いてしまえば、もうなんてことはない。
自分が本当に大切にしたいもの、信じたいものを再確認するだけだ。
なんて、コーヒーを飲みながら、これを書いていると
もう彼からの連絡なんて、どうでもよくなっている私がいた。
それでも、こうして
大切にしたいことに気付かせてくれる
彼という存在には、本当に感謝しているのだけれど、
なんだか悔しいから
その感謝を伝えるのは、
彼が自分から連絡をしてきたときにしようと思う。
ラブソングなんて、いらない。
いつからかさっぱり聴かなくなったラブソングが聴きたくなって、
久々の美しい旋律に浸りながら、これを書いている。
今日は、「君と最後の日」
ついに来てしまったこの日に、見えない未来に、
それでも、いつもと何一つ変わらない君に、
不安を感じてしまえばきりがなかった。
それでも、ずっと前から
今日という日を、君と過ごす時間を
ちゃんと楽しもうと、幸せを感じようと決めていた。
いつもと変わらず、
冗談を言い合いながら過ごす時間はあっという間で、幸せで、
それでも時々見せる、何かを言いたそうな君の目だけは、
どうしても、ちゃんと見ることができなかった。
朝、まだ薄暗い朝焼けの中に向かう背中。
何度もこうしてこの背中を見送ってきたはずなのに、
もう2度と会えないような気がして、思わずその背中に抱き着いた。
そして、軽くキスをして、
「いってらっしゃい」
笑顔でそう、君に言った。
「いってらっしゃい、なのかな」と君は少し困った顔で「またね」と、微笑んだ。
始まりから普通とは違う2人だったし、
私は恋愛がすごく下手だったから、
ラブソングやネットに溢れる誰かの恋愛と比べてしまえば
不安が募るばかりで、そうやって何度も君を困らせたけれど
それでも、幸せな日々だった。
あの時「いってらっしゃい」と言ったのは、
また君に「おかえり」と笑顔で言えるようにって
そんな私の小さな願掛け。
誰もが共感できるような
羨ましがるようなラブソングのような恋ではないけれど
それでも、いい。
そう思えるほど、強くなれたから。
君を、好きになれたから。
私はきっと大丈夫。
私たち2人もきっと、大丈夫。
今度、君に「おかえり」を言うときには、
あの時、君が言いかけた言葉も
きっとちゃんと受けとめられる。
だから、今日は「最後の日」なんかじゃない。
ラブソングには、なれない2人の「新たな始まりの日」で、
そして、私がラブソングを聴けるようになった日。
キミの瞳に光が蘇る時。
最近は、言葉にしたい衝動に任せて
自分の感じたことをありのまま、言葉にするようにしている。
そうやって自分の衝動に従うと、別に意識しているわけではないのに
気が付けば、恋愛についてばかり書いてしまっている。
実際、数字も別のことについて書いたときに比べて
恋愛について書いたときのほうが断然いい。
それだけ、恋愛は多くの人の心を揺さぶるものなのだと思う。
だからこういった場合、
ブランディングやマーケティングの視点から見れば
このまま恋愛に関することに特化したほうがいいなんてことは
そういうことに疎い私でさえ、わかる。
けど、それでも、私は自分の書きたいことを書く。
と言っても、ただ想いを表現したいというだけで
こうして書き綴っているわけではない。
そもそも、自分の想いを表現したいだけなら
わざわざこうして、全世界の人の目に触れる可能性のある
インターネットに自分の想いを公開したりはしない。
せいぜい、日記帳に書き綴って終わりでいい。
つまり、こうして公開しているのには、それなりの理由がある。
SNSでよくいう承認欲求を満たしたいのかと問われて
違うと答えれば、おそらくそれは嘘になるけれど、
「承認してもらいたい」という想い以上に
「少しでも多くの人に自分の言葉を届けたい」という想いが強い。
なんならいつか、エッセイ本を出版したいと本気で思っているくらいに。
だったら余計、万人受けするものを書いた方がいいんだろうけど
それじゃあ意味がないのだ。
「私の世界を、私の言葉で、伝えたい」
本気でそう思う私は、ナルシストでエゴイストだ。
だから、万人受けするものよりも
自分が書きたいと思ったものを書いていく。
そんな私が1番心を動かされる瞬間であり、
ずっと書きたいと思いながらも、
なかなか書けない瞬間がある。
それは、生徒と関わっていると度々出会う
「彼らの瞳に光が蘇る瞬間」
その瞬間はたいてい
塾講師としてではなく、1人の人間として
生徒たちと1対1で向き合っているときに訪れる。
それは去年から進めている
進路面談ではなく「自分がどうしたいのか」について
生徒たちととことん向き合う時間。
詳しい内容はこの記事に書いたので
興味を持ってくれた人は1度、読んでみて欲しい。
そこで生徒たちと話す内容が
自分と向き合うことだからなのか
私自身が生徒の心に意識を集中しているからなのか
原因はよくわからないけれど
直感で空気が変わるというか
生徒たちの瞳に光が蘇る瞬間を何度も体験した。
その瞬間がどういうものなのか
上手く表現することができなくて
今までずっと書けずにいた。
一見、たわいもない会話のようで
自分の想いを問いかけていく質問を投げかけていく中で
生徒自身が自分の中にある"何か"に気付く。
そして、その瞬間、瞳に光が蘇る。
それは楽しいとか嬉しいとかではなく、鳥肌に似た感覚なのだけれど
とにかく私は、その瞬間がたまらなく好きだ。
そしてその度、いつも思う。
「もう、大丈夫」
そして生徒たちは、自分でしっかりと歩きはじめる。
そんな瞬間を少しでも多く経験したいから
私はこの取り組みを絶対に形にしたいと強く思うのかもしれない。
この取り組みを形にしていくための一環として
というよりも、どうしてもこの瞬間を言葉にしてみたくなったから
これから少しずつ、それぞれの瞬間を言葉にしていこうと思っている。
もちろんプライベートなことを含むから
多少の脚色や修正は加え、あくまでも実話を基にしたフィクションとして。
そうすることで、いま子どもたちが感じている苦悩や秘めた想いと
そんな子どもたちの瞳に光が蘇る瞬間を1人でも多くの大人が感じてくれれば嬉しい。
そして同じような苦悩や想いを持つ子どもたちの
何かヒントになれば、最高に嬉しい。
「もう、大丈夫」
そんな想いを込めて、これから少しずつ書いていこうと思う。
今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」
恋をするということ
「もっと早く出逢えていたら…」
なんて、まるでどこかの恋愛映画のような台詞を
電話越しに君が残すから、その先が気になって仕方ない。
飲み込まれてしまった先に、一体どんな未来があったのだろう。
君が見ている未来に、私の居場所はあるんだろうか。
君との電話を終えた後、
そんなありふれたラブソングのような言葉を
思わずノートに書いてしまった自分に苦笑いがこぼれた。
恋は盲目とはよく言ったもので、
不器用な私は昔から、恋をすると周りが見えなくなった。
だから、恐ろしいほど恋愛が下手だった。
ようやくこの歳になって、
バランスを取るということを覚えたくらいに。
今、私は恋をしている。
些細な一言に一喜一憂したり、
LINEの通知を待ちわびたり、
増える通話履歴に幸せを感じたり、
気が付けば彼のことを考えている。
だからこそ
今もこうして、来るかもしれない別れを想像しては
不安に震えている。
けれど、昔と大きく変わったことが1つだけある。
それはそんな自分に、彼のことばかり考え、他のことが手がつかなくなっている自分にストレスを感じている。ということ。
彼のことは好きだし、できることなら別れなんて来てほしくない。
けれど
そうやって彼のことばかり考えて
恋に溺れてしまいそうになっている自分がいる一方で
どんな結末になろうとも、私の生き方は変わらない。
そんな冷静な自分もいる。
それが昔の私と決定的に変わったこと。
「恋になんて振り回されないし、私には、譲れない生き方がある」
けどそれは、
彼に出逢い、恋をして、
たくさん笑い、たくさん泣いたからこそ
できるようになった生き方。
「矛盾だらけの自分を愛し、信じて生きる」という
彼が、教えてくれた生き方。
昔は恋をしてしまうと、全てが上手くいかなくなった。
だから恋なんてしないと思ったこともあった。
けど今は、恋をしているからこそ、全てが上手くいっている。
そしてもし、この恋が終わってしまったとしても
私は、私として生きていけると思える。
終わってほしくなんてないし、
けど、もし終わってしまったとしても大丈夫だと思える。
つくづく不思議な恋。
「恋をするということ」
それは、誰かを愛することだと思っていた。
けど今は、誰かを愛することで、
自分を愛せるようになることなのかもしれないと思う。
不可解で、つかみきれない。
それはまるで君のようで、
結局、私はこの得体のしれない存在に
振り回されながら生きていくのだろうと思うけど、
1つだけはっきりしていることがある。
「君に恋をして、よかった」
先のことなんて、きっと誰にもわからないし、
私はただ、いま目の前にある君がくれる幸せを
見落とさぬように、しっかりと感じていこうと思う。
生き方に"答え"はあるのか
「四六時中、あなたのことを想う人生は選ばない」
そんなことを言いながら、
ついつい恋愛のことばかり書いてしまうのは
やっぱり恋愛がくれる幸福感が1番、私の感性を刺激するから。
それでもやっぱり私は、四六時中、恋愛モードではいられない。
それは、時に憎たらしく、疎ましさも感じるけれど
それでも愛おしくて仕方ない「生徒」という存在がいるからだ。
学生時代のアルバイトを含めれば
塾講師という仕事を始めてもう10年以上になり、今の職場で働き始めてもうすぐ5年になる。
といっても、正社員ではなく、なろうという気も到底ない。
時期が来れば、塾講師という仕事は辞めると決めている。
そもそも昔から、
テストの点数にも偏差値にも、さほど興味は持てないし、
極論、勉強をしたくないなら、やらなきゃいいと思っているし、
なんなら、たまに生徒たちに言うことさえある。
もちろん、任された仕事はきちんとやるけれど、
今こうして書いてみて、こんな私をよく雇ってくれているうえに、自由にさせてくれているなと、改めて上司の懐の深さに気付く。
最近、わかったことがあって
私にとって、英語を教えるということは「趣味」にすぎないのだ。
塾講師という仕事は好きだけれど、いわゆる「プロ」になりたいとは思えないし、この先もずっと思うことはないと思う。
じゃあなぜ私は、この職場に居続けるのか。
その理由は、去年から始めた「生徒面談」にある。
面談と言っても、学校や多くの塾が実施しているような
成績や学習態度に関してどうこういうような面談ではない。
コーチングやカウンセリングの手法を組み合わせながら
生徒たち自身が自分の今抱えている課題と向き合っていくための手助けをしてくための時間。
基本は高3生対象で、
受験勉強へのモチベーションや志望校、将来の夢、学校や親のこと、勉強の仕方など、話題は多岐にわたり、そのときの生徒の状態に合わせて選ぶようにしている。
コーチングやカウンセリングは大人たちにとっては少し身近にはなってきたけれど、高校生対象となるとこれといったロールモデルがあるわけでもない。
だから、本当に手探りで進めているプロジェクトだ。
それでも、私はこの「プロ」になりたいと思っている。
数日前まで「高校生」だったはずの生徒たちは
4月1日になると同時に急に「受験生」となり、
せいぜい学校と部活と友達のことさえ
考えていれば何も言われなかったはずなの日々は
急に「どの大学に行く?」「どんな仕事に就く?」と
キャリアプランを決めるよう迫られる日々へと変わる。
決めてない、わからないと答えようものなら、甘いだの意識が低いだのと言われる始末だ。
その癖、数式や文法について高らかに語る大人たちは
仕事やキャリアプランとなると、急に薄っぺらい話しかしなくなる。
数百年かかった変化が数十年で起こっているといわれる現代。
おそらく、様々なものが多様化しているし、
さらにこれからそれが加速していく現代の生き方に正解などない。
大人たちが子どもの頃に正解だったものは、どんどん正解でなくなっていく。
けれど、大人たちはそれしか知らないから
自分たちの頃の正解を押し付けてくる。
「いい大学に行って、いい会社に入って、結婚して、子どもをつくって…」
そんな正解に違和感を覚えながらも、どうすればいいかわからない。
どうすればいいのかも、サポートしてくれる人も見つからないまま
時間だけは確実に過ぎていく。そして、決断を迫られるのだ。
トータル60名ほどの生徒たち1人1人と話をしてきて確信した。
そんな環境の中で、なんとか自分の正解を見つけようと
大人たちが思っている以上に、生徒たちは必死でもがいている。
「自分はどうしたいのか」を、必死に見つけようとしている。
そんな生徒たち1人1人と向き合い、一緒に考えていく。
そして「自分はどうしたいのか」という、問いの答えを一緒に見つけていく。
そんな時間が、そんな大人が、間違いなく必要だと思う。
だから、私はその「プロ」になりたいのだ。
もちろん、まだ具体的な形は出来上がっていないけれど、
生徒たちがもがいているように、私ももがき続けようと思う。
それが私が出した、私の生き方の"答え"だから。
表現することは、愛すること。
仕事が秋休みに入ったこともあり
相変わらず、スローペースな日々を送っている。
空が徐々に色付きはじめ、まだ街は眠っている頃
一応、かけておいたアラームを止める。
少し起き上がってみるけれど
結局、部屋の寒さとベッドの温かさのコントラストを感じながら、また眠りに落ちる。
そんな日々に少しの罪悪感と幸せを感じながら
やっぱり私には、こんな時間が必要なのだと再認する。
ここ数ヶ月、いやもっと前からかもしれないけれど
ずっと「表現」という言葉が、いつも頭の片隅にある。
確かに昔から文章を書くことが好きだったけれど、
なぜここまで頭から離れないのか正直、不思議でたまらなかった。
そういえば、美術は苦手だったな。
いつからだろう。美術が苦手と思うようになったのは。
小さいころは、絵を描くのも好きだったのに。
そんなことをふと考えたりできるこの時間がまた、幸せだと思う。
たぶん、私が美術を苦手だと感じるようになったのは
通知表で「4」がついたあの日からだ。
自分の想いを思うままに表現したものが
他人によって評価される。
そして、その評価に直面した、あの日からだ。
あの日から、私は「美術が苦手」になった。
それから、色んなことが重なって
アートや芸術なんて自分とは縁がないものと決めつけていたし
表現すること自体も、なんだか億劫になっていた。
自由に描くよりも、模写が好きだったし、
自分の意見を書く作文よりも、誰かが書いたものをまとめるほうが好きだった。
そうやっていつからか
自分の想いを表現することに怯え、遠ざけてきたけれど、
心の中ではいつも表現したくて仕方なかった。
だから、mixiやアメブロがまださほど有名でなかった時期に
匿名で表現できるブログやSNSという世界にはまっていったのかもしれない。
今は、誰でも簡単に自分の想いを表現できるようになった。
日々のちょっとしたできごとをTwitterでつぶやいたり、
日常の一コマをおしゃれにインスタでアップしてみたり、
自分の想いや恋愛テクニックなんかをブログに書いてみたり、
そこから普段出会えないような人々と出逢えたり、
自分の好きなことを発信することが仕事につながったり、
そうやって、人生が一気に変わったりさえもする。
いちはやくSNSの世界にはまった割には
上手く使いこなせていなかった私も
そんな世界に憧れて、飛び込んでみたけれど、
いつも途中で違和感や劣等感を覚えてしまって、
結局、なかなか続けられずに今に至る。
それでも「表現する」ということが捨てきれなくて、
形を変えながら、細々と続けてきた。
そうやって諦め悪く続けているうちに、1つの想いが生まれてきた。
私がこんなに「表現する」ということに惹かれるのは、
誰かに評価されたいからでも、人生を変えたいからでもない。
もちろん、評価されるのは嬉しいし、人生を変えてみたいという野望もある。
ただ、それはおまけにすぎないし、そこを1番の理由にしてきたから、今まで上手く続けられなかった。
例えば、毎日当たり前に見ている景色さえも、
昨日と今日ではそれを見て感じることが違うように
昨日は好きだったものが、
今日は嫌いになってしまうかもしれないように、
そんな風にふぞろいで、矛盾だらけの自分の想いを
「自分という存在」を認めたいからなのだと思う。
私にとって「表現する」ということは「愛する」ことた。
日々変わっていく矛盾だらけの自分の想いを表現することで認めていき、
そうやって自分の世界というものを確認し、
そこからみえる矛盾だらけの人間という存在を認めていく。
そうすることで、自分を愛することができるし、
同じように他人を愛することができるようになる。
それが私が表現する意味なんだと今は思う。
とは言え、私は矛盾だらけの生き物だから、
ひょっとすると明日には変わってしまうかもしれないけれど、
今は強く、そう思う。
いつからから表現することへの想いが強くなっていて、
— Malina (@marina1988s) 2017年10月31日
それきっとあたしにとって
「表現する」ということは、
矛盾だらけの自分を受けとめて、愛していくことだったからなのだと思う。
そうやって
矛盾だらけの自分を愛し、
矛盾だらけのあなたを愛せるように。 pic.twitter.com/XAMW2XB7S7
矛盾だらけの自分を愛し、
矛盾だらけのあなたを愛したいと、強く。
My Life is ...
少しスローペースな日。
けれど頭の中は、あなたのことでいっぱい。
会った次の日は、いつもそう。
そうやって、あなたがくれた幸せの余韻に浸る。
この幸福感が私の感性を刺激する。
次々と言葉が浮かんでは、消えていく。
それはシャボン玉が一瞬で消えてしまうようなものではなくて
インクがじわーっと広がっていくような、そんな感覚。
そんな感覚をくれる彼のことが
きっと、たまらなく好きなのだけれど
けれど、そのまま溺れてしまいたくはない。
溺れてしまえば、この幸せは、きっと簡単に崩れてしまう。
私は器用じゃないから、上手くバランスがとれなくなる。
そんな自分は、好きになれないから。
私は、未来にも、あなたにも、振り回されたくないの。
恋は、私を美しくしてくれる。
けど、美しくなるために、恋なんてしない。
私が、私だからこそ、美しい。
それを教えてくれたのも、あなただけれど
そんなあなたへの愛さえも、私の人生は変えられない。
私の人生、好きなように生きていくの。